[21]
2週間前―。
私が〈ロゼ〉に寄った日の夜。ホテルの部屋に帰った途端、電話が鳴った。
「電球が切れたので、隣の部屋に届けてほしい」
「間違い電話ですよ」
通話が切れた。また聞き覚えのない声だった。狙いすましたようなタイミング。ホテルに戻る姿をどこかで見ていたのだ。思わず私は怒りを覚えた。あらかじめ決められた手順による呼び出しだった。おそらく結城だろう。隣の部屋だろうが自分からは決して出向こうとはしない。結城はそういう性根の持ち主だ。
まず自分の部屋で何か得物は無いか探し回ったが見つからなかった。諦めに似た気持ちで覚悟を決め、隣の部屋の前に立つ。ドアを控えめにノックした。無意識に時間を確認した。午後10時10分前だった。
部屋の中からは足音も何も聞こえなかった。それでもドアの小さい穴から魚眼レンズ越しにじっと見られている気配がした。やがて前触れなしにドアがパッと開いた。
「遅かったじゃないか」
結城が底抜けに明るい声で言った。演技であることはすぐに気づいた。案内された部屋の中は照明が落とされて薄暗かった。島村と松岡もいた。部屋の真ん中に置かれた応接セットに、派手な縦縞のスーツに身を固めた松岡が座っていた。
私は松岡と対面して座らされた。結城が松岡の傍らに立って私の紹介をした。窓際に立っている島村は私の背中をじっと睨んでいる。
「本省の情報調査局にいる天羽です」
松岡は鼻にかけた眼鏡から私に鋭い一瞥を投げかける。80歳近い老人だが、ぼさぼさの銀髪にはまだ生気があり、厳しい顎と大きな骨格があたりを睥睨していた。岸部の言葉通り、たしかに身体が大柄なところは崔景姫と瓜二つだった。
「では、証言しろ」結城が言った。
「落ちてましたよ」
私はまずレベッカが書いたハガキを松岡に手渡した。今夜この部屋の中にいた誰もが驚いただろうが、松岡は「ありがとう」と礼を言った。結城が「ちゃんと証言しろ」と怒鳴りつけた。
「拒否します」
「なぜ?」
「私は命をかけて《北》の監視に身をさらしたんです。それが『ホトボリガ覚メルマデ帰国ヲ禁ズ』の電報1本だけではおさまりが付きません」
島村が意外だというような口調で言った。
「怒ってるのか?」
「『作戦ガ発覚シタ』では納得できません」
松岡は関心ここにあらずという感じだったが、鷹のような眼は面白がっていた。
「えー、天羽というのは」松岡が尋ねた。「偽名かね?それとも本名かね?」
「・・・本名ですが」
「偽名だとしたら、ちょっと出来すぎではないかと思ったのだ。私のぐらいの歳からすれば、外交官で天羽といえば、あの人が浮かんでくる」
私は苦笑を浮かべた。松岡の脳裏に浮かんでいる外交官は私も知っている。
天羽英二。
私と同姓の天羽は外務省情報部長を務めていた1934年、日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であるとする非公式談話を出したことで有名になり、戦後は戦犯として公職追放された。ちなみに、私の家族とは何の縁もゆかりもない。私が外務省に入り立ての頃、当時の上司だった袴田からよく「戦犯の息子め!」と罵倒された思い出がある。その誤解を解くのにだいぶ苦労した。
「審議官」結城はいまだ昔の役職名で松岡を呼んだ。「天羽については説明したではありませんか。天羽英二とは関係ないと」
「そうだったかな・・・うん、そうだった」
結城が呆れ顔を浮かべる。松岡は笑っている。長い経験がある分、松岡の方が結城よりも役者が何枚も上だ。松岡はまじまじと私を見つめた。
「私は君を知っているのだろう?」
「はい。お忘れになったのかもしれませんが」
松岡は私の素性や職歴など隅から隅まで把握している上で聞いてきている。私はふとそんなことを思った。
「思い出したよ」
どうせ聞いてもすぐ忘れる。松岡はそう言いたげな表情で言った。
「審議官、もういいでしょう」
結城はもう松岡に取り合わなかった。私の背後にそっと忍び寄り、ことさら抑制した声で言った。
「君はこの部屋か、君の部屋の前でハガキを拾っただろう?〈ロゼ〉というバーにいる女からのお誘いだ。そうだな?」
「・・・」
「答えろ」
松岡が口を挟んだ。
「結城君、座ったらどうかね?」
「審議官」
「天羽君は答えまい。結城君、お茶を淹れてくれんか。どのみち《ヘレン》の話をすることになるんだからな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます