[20]
午後7時25分ごろだった。もう爺さんのバッグの番などしているヒマはない。
私は席を立った。店を出てレベッカを迎えに行く決心をした。その時だった。通路の奥から、あの中年男がすたすたとやってくる。今は私をまっすぐに見つめ、捕まえずにおくものかといった表情で口をしっかり結んで近づいてくる。
「私、こういう者ですが」
いきなり男は私に名刺を突き出しそう言った。声は低い。辺りをはばかった素早い物言いだった。名刺には『某興信所調査員』とある。
「これ、何ですか・・・」
「ちょっとお話が」
男はさっさと先に椅子に腰を下ろした。私は上げた腰を再び下ろした。
男は私の名前を告げ、本人に間違いないかと尋ねた。私は答えなかった。答えなかったということは、つまり肯定したことになるのだろう。だが、私はともかく呆気にとられた表情で押し通すことにした。
「コウさんという女性をご存じですね?」男はさらに低くした声で囁いた。
私は答えなかった。男は続けた。
「私はコウさんから依頼を受けて、あなたを探していました。ホテルを急に引き払われたようなので、コウさんが心配して探しておられたのです。あなたにご迷惑がかかるといけないから、内密に、というご依頼でした・・・で、単刀直入に申し上げますと、コウさんはもしあなたさえよければ、もう一度会っていただけないかというご意向なのですが、いかがでしょうか」
私は無言を通した。考えなければならないことが山のように噴き出して、絶句していたのだ。ただでさえ急な事情が迫っている時に、崔景姫が興信所の調査員を雇ってまで、私を探していたとは。
《会いたい、だと?》
私は思わず眉根に皺を寄せる。
「あんた、さっきから何を喋ってる。人違いだろ、あっちへ行け」私は言った。
男は眼をむいた。私をじろりと睨む。
「それがご返事ですか。そのようにコウさんにお伝えしてよろしいのですね?」
「あっちへ行けと言っただろう!」
私はテーブルを叩いて怒鳴った。男は侮蔑の眼を残して席を立つ。興信所の男が店を出ていった。男と入れ違いに、私も席を立った。ウェイトレスに訊いた。
「電話を貸してくれ」
「トイレの通路に」
不倫の男女が座るテーブルの脇を通る。公衆電話が通路の奥にあった。私は受話器を取り、意識して低い声を出した。交換手に「リーベンベルクガッゼの〈ラグーン〉につないでほしい」と告げる。
つながった電話に今度は「《ヘレン》の件だ」と吹き込む。〈ラグーン〉の店主は「おつなぎします」と答え、接続音が耳奥に響いた。島村がセッティングした非常用の連絡手段だったが、いま生きているかどうかはイチかバチの判断だった。
「はい、結城」
「天羽だ。コウが興信所の調査員を使って接触してきた。何があった?」
「いや、コッチは何も起きてない。それより今どこだ?着いたのか?」
結城はウィーン国際空港にあるカフェで私とレベッカを待っていた。今はカフェに備え付けの公衆電話から通話しているはずだった。
「レベッカがまだ来ない」
結城が受話器の向こうで舌打ちする。私は構わず訊いた。
「どうして《ヘレン》は私に接触してきたんだと思う?」
「おれは知らん。訳を知ってるとすれば、島村だろう。それよりも早く空港に来い。飛行機に間に合わんぞ」
「島村はどこにいる?」
「行方不明だ」
「行方不明?」
「レベッカを尾行してるのは間違いない。〈ロゼ〉を出たのは聞いてる。だが、その後の連絡がない。レベッカも島村も喫茶店に向かってるはずだ。お前に連絡は?」
「ない」
結城がもう一度、舌打ちする。
「とにかく8時だ。8時になったらおれは出る」
「8時までに空港に着かなかったら?」
「他の手段でレベッカと一緒にウィーンを脱出しろ。当たり前だ」
私は受話器を叩きつけるようにして通話を切った。
悪い予感は的中した。やはり愚かだったのだ。ド素人連中が諜報の世界に足を踏み入れた結果がこのザマだ。私は不意に揺さぶられてパニック寸前だった。
レベッカに初めて会ったあの夜、私はどういう気分だったのか。
レベッカが書いたハガキの宛名―「ハンス・シュミット」という人物に思い当たる節があった。同名の貿易商は松岡が満州で使っていた偽装身分だった。〈ロゼ〉のレベッカを命綱にして、ホテルで私の隣の部屋に宿泊していた男は松岡だったのである。
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