[19]

 新聞を畳んだ時、ふいに喫茶店の床がズンと揺れた。地鳴りのような物音が遠くから聞こえた。咄嗟には何の音なのか分からなかった。数十メートル離れた距離で聞いたような自動車同士の衝突音のようだ。

 駅の周辺には幹線道路がある。どこかで車がぶつかったのだ。一瞬そう思ったが、すぐに違うことに気付いた。強烈な硝煙の臭いがした。

 私は反射的に窓の外を見た。路地に散らばった人たちの頭が一斉に音の聞こえた方向へ向いている。この喫茶店の右の方向らしい。悲鳴や怒号が走っている。

「爆弾ですか」後ろの老人が囁いた。

「え?」

 私はわざととぼけて尋ね返した。老人は私の椅子の背から首を突き出してきた。私と頭を並べてガラス窓の下の路地を見下ろしながら言った。

「ほら、この臭いは爆弾ですよ」

「へぇ・・・よく知ってるな」

「黒色火薬の臭いにしたら、だいぶ匂いますが・・・」

 老人は独り言を呟いた。確かに、黒色火薬から出るガス臭ではなかった。酸素バランスの極端に低い爆薬が爆発したのだ。たとえばTNT。私はイランの総領事館で防衛駐在官から聞いた話を思い出していた。それにしてもこの爺さんめ。爆発物のガスの臭いを嗅ぎ分けることなど、普通の人間には出来ない。ただの老人ではないな。そう思いながら、私は後ろから身を乗り出している皺深い横顔をそっと窺った。あらたな不安がちらりと走った。

 パトカーや救急車のサイレンも聞こえる。ざわめきは広がり、メガホンを持った制服警官たちが走り回っている。

「私、ちょっと見てきます。あ、バッグ見といてください」

 老人はいきなり座席を立った。合成皮革の安っぽいバッグを私の膝に落とし、伝票や新聞をそのままにさっさと姿を消してしまった。歳に似合わず身軽な足取りだった。その辺にレジの女の姿も見えず、老人は金も払わずに出ていったのだが、今は誰も気付く者もいなかった。あの紙袋の男以外は、不倫の男女もウェイトレス2人も、みな窓辺に寄ってひそひそ囁きあっている。中年男も首を長くして窓の外を仰いでいる。そして、その傍らで紙袋の男は1人、ポルノ雑誌を手元に置き、冷めたコーヒーを啜りながら虚空を仰いでいた。

 突然の爆弾騒ぎも迷惑だが、私の眼には不気味に静かなその男の姿の方が、はるかに異様に見えた。そうして私がその男に眼をやっていた数秒の間に、男はふいに虚空から眼を戻し、私の方を見た。眼を合った。私はすぐに眼を逸らしたが、突然心臓を射られたような感じを覚えた。

 ひょっとして、あれはどこかで会った人物ではないか。

 私を個人的に知っている人物ではないか。

 根拠のない想像をして不快な悪寒に見舞われながら、私は騒然とした路地へ眼を戻した。ガラス窓に映る店の時計は午後7時22分を指している。レベッカはどうしているだろう。爆弾騒ぎは店に伝えられているだろうし、レベッカは脅えて来ないかも知れない。自分が店まで迎えに行くべきだろうか。見張りはどうだろう。

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