[18]
「変な女ですな」
背後で老人が囁いた。十何本目かのタバコに火をつけている。老人も目敏く女の一部始終を見ていたのだ。女の発言を変だと思うのは当然だった。
思わず「そうだね」と言いかける。私は口をつぐんだ。知らない人間と口をきくような心の隙が自分に生まれかけていたのだ。そう思うとぞっとした。
老人は私の気持ちなど構わず、独りで勝手に喋りかけてきた。しかし、今度は全く違う話題だった。
「私は路面電車でここから3つ目の駅の近くに住んでます。家はあるんですが、息子夫婦と一緒というのも、居づらいものです。ですから毎日、ここで時間を潰してるんです。まだ新聞の字もやっと読めますから・・・」
この老人は何を言っているのか。この薄暗い喫茶店の中で、5メートルほど離れた座席の周辺で起こった事柄の一部始終をしっかり見る目があるなら、百科事典の字でも読めるだろう。そんなことを思いながら、再び私も新聞に眼を戻そうとした。
その時、当の女がふいに立ち上がった。店を出るのかと思ったら、女は中腰になったまま、すべらかに2メートル移動して、あの紙袋の泥棒の隣に座った。男はポルノ雑誌からちらりと目を動かして、隣に寄り添ってきた女を見たようだが、やはり能面だった。
いったい何が起こるのか。私はその時、無意識に眼をガラス窓から逸らした。頭を振り向け、自分の眼でその男と女の方を見た。
男は雑誌を下ろそうとはせずに、横目で女を見ていた。女はテーブルに片肘をつき、同じく横目で男を見ていた。不意に女がその赤い唇に笑みを浮かべた。秋波といってもいい笑みだ。そういえば、男もなかなかのハンサムだった。女も年が若いとあれば、こういう場面はあっても不思議ではなかった。女は今まで男のひとつ前の席に斜めに座っていた。それに互いに顔は見えていたのだから。
2人は以前から知り合いかグルだったのか。そうとも思ったが、その想像はすぐに消えた。男はそのような下心のある表情はいっさい見せず、あくまで隣に座った女をじっと見ているだけだった。
女は半ばテーブルに眼を落としながら、何か小声で囁いた。声は聞こえなかったが、唇が動いている。男の唇は固く閉じたままだ。次いで、男の左手がすっと動いたかと思うと、その手は足元に置いた紙袋の中に消え、すぐに再び現れたときにはあの茶封筒を摘まんでいた。いや、あの茶封筒より、少し色が薄いようにも見えた。しかし、厚みや大きさなどはほぼ同じだ。あの封筒に間違いないだろう。
女は男が例の椅子の下から封筒を掠めたのを見ていた。それをネタに男をゆすったのだろうか。ゆするにしても、どんな理由と口実をつけたのだろう。ともかく、男の手はテーブルの下でその封筒を女の膝に置き、女はやはりテーブルの下でそれをハンドバッグに忍ばせた。そして女はまた音もなく席を離れ、もとの自分のテーブルから伝票をつまんで店の出入り口にあるレジで勘定をすませ、出て行った。
私が呆然と見送る。後ろで老人の声がした。
「あれ、違う封筒ですよ」
私は無意識に尋ね返していた。
「そうかな・・・」
「色が違います。マフィアの落としたものはもっと色が濃かった・・・」
やはりそうか。私もそう思ったのだ。
新しいタバコに火をつけながら「怪しいですな」と老人は呟いた、
「ああ」私は応えた。
一方、面識のないらしい女にいきなり近づかれても顔色ひとつ変えず、平然と違う封筒を渡した男はまたポルノ雑誌を開いている。私はその男から眼が離せなくなった。いったい何者だろうという思いが際限なく湧いてきた。後ろの老人がただ「怪しい」というのとは次元が違う。予感のようなものだった。あの男には何かある。
あれこれ、理由のあることないことを私は考え続けた。あの男とクラブの女は知り合いだった可能性もある。2人は以前から、あのマフィアとは関係ない事情で何かの受渡しをすることになっていたのだろうか。あのマフィアのハプニングのおかげで、この私や爺さんなどの他の客の眼を引いたこともあって、女は接触のタイミングを失い、私たちの眼を不審に思わせないような芝居を逆にしたのだろうか。男が女に渡した封筒は予め渡すべきだった別物だったのだろうか。
しかし、もし自分が2人の立場だったらどうするだろうかと考え、私はこの推理に現実味がないことを思い至った。接触するためなら、2人は別々に店を出て、外であらためて機会を窺えばいい。人目を引くようなあの女のやり方は、非常識の何ものでもない。
それでは、最初に考えたように女は男が封筒を盗んだのを見ていて、それをネタに強請ったということだろうか。しかし、男が女に渡したのは似たつくりの別の封筒だった。そんな物を都合よく男が持っていたというのは、一体どうしたわけか。これは偶然にしても話が出来すぎている。男が店に現れてしばらく、紙袋の中からいろいろなものを取り出したが、そこにはあの封筒がなかった。
変な男。変な紙袋。それだけではすまない不気味なものを感じながら、私はそろそろ腰を上げることにした。時刻は午後7時20分。まだレベッカは現れないが、こんな騒々しい喫茶店に座っているより、駅に出て待つ方がマシだ。
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