[17]

 その姿が私の見ているガラス窓に映った。

 男はあっという間に椅子の下から丸めた雑誌を掴み出した。その手に雑誌と一緒に封筒も掴んでいた。一緒に掴んでいたために目立たなかったが、封筒を掴んだのは間違いなかった。

 私は唖然としていた。ガラス窓に向かって眼を見開いた。先を越されたと一瞬唸り、あの男も見ていたのかとあらためて驚いた。タブロイド紙をぴくりとも動かさなかったはずなのに。新聞紙に覗き穴でも開けていたんだろうか。

 男は掴み出した雑誌と封筒を手に、すぐに再び自分の席に腰を下ろした。そして封筒を足元の紙袋にすとんと落としながら、その手はもうポルノ雑誌をぱらぱらとめくり始めた。その素早い手付きときたら。あれはプロの泥棒だ。

 私は失望したり諦めたりしながら、自分の新聞に眼を戻した。気を紛らわすために、何度も確かめる必要のない時間を腕時計で確かめる。午後7時10分。レベッカはまだ店にいるのだろうか。勤め先から大きな荷物を持ち出して大丈夫だろうか。

 スーツケースなど持たずに手ぶらで出て来いと言った。しかし、レベッカは手ぶらで飛行機に乗ったら余計に怪しまれると言い張った。外国で放り出されて文無しの恐怖を味わったレベッカの執着を誰も否定できないだろう。

 胸の裡で後悔と希望を交互につないだりしながら、私は椅子の下から掠め取られた封筒のことをつとめて忘れようとした。

 だが、実際に忘れることが出来たのは束の間だった。

 1分後には、さっき刑事に連れられて姿を消したマフィアの兄さんがいかつい表情を浮かべて喫茶店の戸口に現した。ブツを持っていなかったから、簡単な事情聴取で放免されたのだろう。警察署からその足で戻ってきたのは間違いない。男は大股でさっき自分が座っていた座席に向かい、足で封筒を滑らせて隠したはずの椅子に近づいた。腰をかがめ、手を突っ込む。

 男の顔色が変わった。ガラス窓に映った像でも表情がはっきり見えた。男は床に膝と手をついている。椅子をいくつか乱暴に手で押し退け、さらに覗いた。そうして男はやおら立ち上がる。ついに「おい!」と大声を上げた。

「この椅子、触ったの誰だ!」

 喫茶店に残っている客はみな、怒鳴る男の方を見ている。奥のテーブルを動かない不倫の男女。正体不明の中年男。紙袋持参の泥棒。クラブの女。私。私の後ろの爺さん。ウェイトレスが2人。

「この椅子、誰か触っただろ!俺の落とし物が無いぞ!」

 マフィアは大声を張り上げる。

「おい、そこの兄ちゃん、知らんか!」

 紙袋の男に向き直った。男が通路を隔てた隣の席だったからだろう。

 紙袋の男は見事な能面で首を横に振った。マフィアはすぐに他の客へ眼を移す。

「誰か、知らんか!」

 その時、クラブの女が「兄さん」と言った。「その椅子」女は空の椅子を顎で示した。「さっき、そこに座ってたオジサンがいたでしょ。椅子の下から何か拾って持っていったわよ」

「いつ出ていった!」

「10分ほど前よ」

 マフィアの兄さんは眼を剥いた。

「あの野郎」

 次の瞬間、マフィアは踵を返して店を飛び出していった。店に残された客はみな、それを唖然と見送っていた。私もひどく驚いた。

 私はあらためてガラスの中に映っているクラブの女の顔を眺めた。

 女は10分ほど前に中年ビジネスマンが座っていた座席の斜め向かいに座っていた。椅子に斜めに腰をかけて、タバコを吸っている。たしかに紙袋の男より正確に、正面から中年男の挙動を見ていたことになる。しかしそれならば、中年男が椅子の下に手を入れて丸めた雑誌を突っ込むのも見たはずだ。そこから中年男が何かを拾って持って行った等と言うのは嘘だ。

 女は本当に見間違えたのか。それとも知っていて嘘をついたのか。

 またひとつ、気晴らしのネタが出来たようなものだった。ただの水商売の女だと思っていたが、ひょっとしたら違うのかも知れない。それに、誰かを待っている顔だと初めに思ったが、私が喫茶店に入ってからすでに40分が経っている。誰も現れる様子がない。

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