[16]
私は新聞の陰で眼を動かす。ブツが滑り込んだ椅子の方を眺めた。その上には、中年ビジネスマンの尻が載ったままだ。
そのビジネスマンがふいに手にしていたポルノ雑誌を下ろした。片腕の時計を覗きながら、出口の方へ眼を向ける。そうかと思うと、身体を前に屈めてすばやく雑誌を自分の座席の下に突っ込む。時おりビジネスマンが要らなくなった新聞や雑誌を電車のシートやベンチの下に突っ込むのを見かけるが、それと同じ仕種だった。雑誌は丸まったまま、あのブツの封筒と同じ場所に消えてしまった。
ビジネスマンがそういうことをしたのは、待っていた客が現れたからだった。新しく店に入ってきたのは、これまた似たような感じの中年男だった。上等のスーツとよく磨かれた靴を履いていた。外回りなら、1日街を歩いてあんなにきれいな靴を履いているわけがない。最低限、2人は営業ではない。コートも持っていない。街のビルのどこかの住人か、あるいはタクシーか自家用車でやって来たのだろう。私はそんなことを推測した。仮にビジネスマンだとしても、どういう業界なのか全く想像がつかない。
2人の男から「やあ」とか「まあまあ」という適当な挨拶の声が聞こえてくる。軽い握手をした後はアタッシェケースから書類を取り出すわけでもなく、商談なのか何なのかも定かではない。
実際、2人の会談は10秒ほどで終わった。先の男はいきなりスーツの懐から茶封筒を取り出して、テーブルに置いた。新たに現れた客はそれを自分の懐に収めて、すぐに腰を上げた。マフィアの兄さんが座席の下に滑り込ませた物と同じような封筒だが、今度は破れるぐらいに膨らんでいた。多分、中身は金だろう。私の背後で老人が囁いた。
「あれ、金ですよ」
私に話しかけたつもりもないのだろう。その辺にいる誰彼なしに独り言を呟くような声を出す老人はどこにでもいる。
そして、2人のビジネスマンはまた「やあ」とか「どうも」というやり取りが聞こえ、封筒を受け取った男はさっさと店を出て行った。ウェイトレスが注文を取りに来るのも間に合わなかったぐらいのすばやい退散だった。1分ほど遅れて、残った1人もアタッシェケースを手にぶらりと姿を消した。
「私は毎日、来てるんですが、あの2人、前にもああやって金のやり取りをしてました。あとから来た方は議会議員の秘書ですよ。この間、テレビに映ってました」
老人の呟く声が背中から聞こえた。
私は相槌も返さなかったが、別に驚きもしなかった。政治家が腐敗しているのはどの国も同じだ。それよりも私の眼を引いたのは、主がいなくなった空っぽの椅子だった。狭い場所にきっちり詰めて椅子が並べてあるため、床にかがんで覗かなかったら、その下に何が落ちていることはまず分からない。私の座っている位置からも椅子は見えるがその下は見えない。あの茶封筒は結局、誰が見つけるんだろう。中身はおおかた覚醒剤かヘロインだろう。あの厚みだけで数十万か数百万になるだろう。
金のことを考え始めると、今度は気が滅入り始めた。私の懐には、ボストンに飛ぶ格安航空券を2枚買えるだけの現金が入っているだけだ。レベッカの偽造旅券を買うために随分、金を使ってしまったからだ。
気が付けば、ついついあの椅子の下に眼が流れた。頂戴しようかな。そんなことを冗談半分に思いながら、店に残っている他の客たちの眼をこっそり窺った。
その時だった。不意にあの紙袋の男が自分の席から腰を浮かした。次の瞬間、通路をはさんで斜め向かいにあるその椅子に手を伸ばしたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます