第2章:スパイは踊る
[15]
〈1988年11月30日〉
ガラス窓に映った喫茶店の壁掛け時計が午後7時を指そうとしていた時だった。
角刈りの男が1人、店に入って来た。男は店内に歩を進めてぐるりと周囲を見渡した。その顔はすぐに怪訝そうな表情になる。右を向いて左を向き、また右を向いた。片手を顎にやる。足はいらいらしたように足踏みしている。
突然、その男は私の方に向かってきた。
「エンツォか?」男は低い声で尋ねた。
私は内心驚きながら、タブロイド紙の陰で「違う」と答えた。男はすぐに背を向ける。今度は四つほど離れたテーブルのマフィアの方に顔を向けた。すると、マフィアはタブロイド紙の向こうから、慌てたようにわずかに顎を出口に動かした。
角刈りの男は出口に向き、密かに舌打ちを洩らした。出口にたった今現れた新たな男が2人立っている。一方、マフィアはその時、新聞の陰で懐から掴み出したブツを素早く自分の足元に落とした。そしてそのブツを靴先で蹴った。薄い茶色の封筒のようなものだった。厚みのある封筒はコンクリートの床をするりと滑り、ポルノ雑誌のビジネスマンの座っている椅子の下へ消えた。
角刈りはマフィアだな。私はようやくピンと来た。店の戸口に立った2人の新顔はおそらく警察の人間。私服警官の一人が角刈りの腕を掴んだ。
「何もしてねぇて」角刈りが言った。
「手間は取らせない。ちょっと来い」
2人は先に出て行った。座っていたマフィアもタブロイド紙を折り畳んで席を立った。鼻で笑ったのはブツをこっそり手放してしまったからだろう。もう1人の刑事に引き立てられて、マフィアもすぐに姿を消した。
よそ見をしているか、誰かと話していたら気付かないほど、あっという間の些細な出来事だった。全部で1分とかからなかっただろう。一部始終を眼で追っていたのは紫のスーツの女と、私の後ろの老人ぐらいだ。奥にいる不倫の男女は睨み合ったままだ。中年男はメモ帳片手に難しい顔をしている。得体の知れない紙袋の男はタブロイド紙をぴくりとも動かさなかった。
もちろん私も顔は向けなかった。ガラスに映った店内の様子を見ていただけだ。ガラスの中で、後ろの老人がひそかに肩を揺すって笑っている。
2人のマフィアと刑事が消えてしまった後、ふいに後ろからその老人の声が聞こえた。
「あなた、新聞もう読まないのだったら、交換してくれませんか」
老人は椅子の背ごしに、別の新聞を突き出してきた。私は自分の新聞を老人に渡しながら、ふと考えた。さっきの角刈りの男が店に入ってきた時、一瞬戸惑ったような顔をして右を見て左を見た理由はこれだ。このタブロイド紙だ。
あの角刈りが入ってきた時、この店で同じタブロイド紙を3人の男が開いていた。
私。マフィアの兄さん。あの紙袋の男。
私とマフィアはダスターコートとスーツを着ていた。角刈りが私に『エンツォか』と尋ねた点から察するに、男は自分が会うべき人間の顔貌を知らなかったのだろう。事前の打合せで《ダスターコートを着てタブロイド紙を開いている男》がエンツォだと教えられ、それを目当てに来たに違いない。
そんなことを考えていると気が紛れて、私はこっそり腹の中で笑った。とっさにどっちが接触相手か分からなかったにしても、もう少し落ち着いて顔を見れば、ブツを持っていそうなのがどっちか分かっただろうに。まあ、たまたま角刈りが立っていた位置から、私の方が近かったというだけのことかも知れない。
ともかく、あのマフィアの兄さんの名前はエンツォ。角刈りとエンツォは何かの取引をしようとしていたようだ。事前に張り込んでいた刑事に見つかりそうになり、エンツォは自分の持っていたブツを素早く手放したのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます