[14]
私はホテルに帰った。岸部の告白を聞いたところで肝心の亡命事件の真相に一歩近づいている予感はまるでなかった。むしろ一層、真相が見えなくなっただけだった。
部屋の前の廊下に何かがきらりと光った。ピンク色のハガキが落ちていた。私はハガキを手に取った。ピンクの薔薇と〈ロゼ〉というバーの名前が印刷してあった。住所と《ハンス・シュミット様》という隣の部屋番号と住人の名前が書かれている。裏に文面。どちらも同じ筆跡だった。
『お元気ですか?また寄ってね。待ってるわ。エミより』
あらためてハガキに書かれた〈ロゼ〉の住所地番を見る。地下鉄駅の向かい側だと分かった。歩いても10分とかからない。それ以上考える忍耐を失くした。私はハガキを背広のポケットに入れて〈ロゼ〉へ向かった。
侘しいネオンの続く路地をふらふらと歩いた。営業中のレストランで〈ロゼ〉という店の場所を訊ねた。給仕が「そこ」と顎で示したところに、〈ロゼ〉のピンク色のネオンがあった。
カウンターだけの狭い店内は誰もいなかった。ストールが6つ並んでいる。仄暗いカウンターの中から女が立ち上がった。私に首を突き出して女が「誰?」と言った。
「お客だが」
「あ、ごめんなさい。こんな時間に来る人なんて、滅多になくて。よかったら、座って」
女は早口にぼそぼそと言い訳をした。壁の時計は午後7時すぎだった。たしかにバーに来るには早すぎる時間だろう。だが一見客の顔を見て「誰?」とはひどい。私はそう思いながら、ストールに腰を下ろした。その若い女を眺めた。
年齢は30を越えていない。拙い英語と顔立ちの雰囲気から、自分と同じ東洋人という程度の見当しかつかなかった。黒髪を後ろで無造作に束ねている。それで余計に細く見える淡白な顔立ちだった。きっと性格もそうなのだろう。こんな素人っぽい顔で水商売が勤まるのか。余計にそんなことを考えた。
「ウィスキー。氷はいらない」
女は黙ってその通りにした。何も気にしないようだが、かなり気を使っている結果として沈黙を選んでいるのだと感じた。カウンターの上に出されたグラスの中で、琥珀のウィスキーがちらちらと揺らめいた。私は眼を細めてそれを眺める。ほんのひと口に舐めてから言った。
「国は?」
「8か月前に、北京を出たの。香港から貨物船に乗って」
「俺と似たようなもんだ」
女が1メートル離れたところに立っている。カウンターに肘をついて遠慮がちに私を見ていた。
「お勤め?」
「なんで」
「マフィアとか商売人だったら、見たら何となく分かるわ。お住まい、近所?」
私はホテルの名前を告げた。
「ああ・・・あそこ。前、時どきここに来てくれた人が、あそこに住んでるの」
「ハガキ、出したか?」
「なんで知ってるの?」
「私の部屋に届けられた」
「ほんと?」
「正しい部屋に届けておいた」
「あのハガキね、あの人が書いてくれって言うから書いたのよ。2週間くらい前、すごく酔って言ってたんだけど、自分が1か月ぐらい店に来なかったら、ハガキをくれって。ハガキが届いた頃にまだ店に自分が来なかったら、死んでるか故郷に帰ったと思ってくれって。よく分からないけど、こういうのって命綱っていうのかしら。でもアタシ、この前にベックマンガッセであの人を見たの。ちゃんとしたスーツを着て歩いてたわ」
「自分がバーの女を命綱に使えるような男だと思ってるのか、そいつは」
「悪い人じゃなかったわ」
「生業は聞いたのか?」
「いいえ、普通のビジネスマンだと思うけど。いろいろと事情があるんでしょ」
「そんな奴は死んでしまえ」
それは女に向かって言った台詞ではなかった。思わず不用意に吐いてしまった言葉だった。私は空のグラスを突き出して「お代わり」と催促した。
「奥さんはいるの?」
「
「あら、やだ」
「エミは源氏名だろう?君の本名は?」
「レベッカよ。レベッカ・ラウ」
「いい名前だ」
見ず知らずの女と他愛もない話をするのは、これが最初で最後だ。私はウィスキーをちびちびと舐めた。こんなに軽いアルコールは今まで知らなかった。ひと口ごとに身体が軽くなる。さまざまな重圧から解放されたような感じだった。私は自分とレベッカのために微笑んだ。最後のひと口を味わい、私はストールから腰を上げた。
「勘定たのむ」
「大丈夫・・・?顔、真っ青よ・・・」
「大丈夫だ。まだ、仕事があるんだ」
私は〈ロゼ〉を出る。ほとんどつんのめるようにして、ずんずんとホテルに向かって夜の通りを歩いた。一度立ち止まったら、恐怖か腹の重みが脚まで沈んで動けなってしまう。脳裏にレベッカの言葉がひっかかっていた。
ベックマンガッセとは北朝鮮大使館のことだった。
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