[13]
私はコーヒーに初めて口をつけた。すでに冷めた液体は苦味が強く残る。
「君は景姫が松岡の娘であることを知ってたのか?」
「知らなかった。あのパスポートを持ってきたのは結城だ。おれもお前と同じことを結城に訊いた。結城はレフチェンコ事件の時に松岡の過去を調べたらしい。そしたら実際に聡美という娘が出てきたんで、それを使ったと」
「松岡の戸籍に聡美の名前があったのか?」
「今の戸籍にはない。松岡は戦後に戸籍を作り直してる。だが満州にいた頃、松岡に妻子がいたことは秘密でもなんでもない」
「ではなぜ、松岡は景姫が娘であることを隠したのだ」
「松岡自身は景姫が実の娘であることを確信できなかった。こういうことだ。松岡は終戦を満州で迎えた。ソ連軍の捕虜となったようだが、48年に入省するまで何をしていたかは不明。一方、大連にいた松岡の妻子は崔霜成と47年に引き揚げ船に乗った。松岡の妻は船中で死んだ。崔は幼い聡美を抱いて日本に帰国し、自分の娘として育てた。しかし、その子が松岡の娘であるという確証はない。聡美は生まれが43年。松岡にも記憶はほとんどない」
「松岡は景姫が自分の娘であるかどうか、あの日あの場で確かめたということか」
「そうだ」
「君はモニタしてた」私は話を先に進めた。「2人はどんな会話をしたんだ?」
「モニタできなかった」
「なぜ」
「彼らは筆談したんだ」
岸部はため息を漏らした。
「鼻をかむ音やすすり泣く音にまじって、テーブルを引っかくような音が聞こえてた。長い時間が経ったと思う。1時間か2時間か。状況に変化は無かった。おれは苛立ち始めた。景姫は簡単に落ちると思ってた。話がついたら早く〈ラグーン〉を出るべきだった。親子の情を深めるのは出国してからでいい。おれたちに与えられた時間はほんの数時間だったはずだ」
「たぶん3時間程度」
「おれはヘッドホンを外して、様子を見るために下に降りた。すると、3人のいるテーブルでポッと火が上がった。メモに火を付けたんだ」
薄暗い店内に老人の背中が2つ浮かんでいる。私にも想像がついた。2つとも大きな背中だった。景姫は肩をそびやかして2人を叱りつけているみたいだった。
「メモに何を書いたかは?」
岸部は首を横に振った。
「松岡が席を立った。蒼白な顔だった。一言、『解放しろ』と言い残して、島村と連絡するために出て行った。おれは作戦の失敗を信じることが出来なかった。景姫を説得するためにテーブルに近づいた。景姫はグラスの中の炎が燃え尽きるのを見ていた。泣いた跡なんかも無かった」
岸部はかすかに笑った。「島村が手を焼いたわけだ」と自分の話に口をはさんだ。
「おれは隣のテーブルに腰をかけた。ボスのように鷹揚に振る舞った。『では同志、銃殺がお望みなのか、それとも我々と肩を組んでようこそ自由世界へ、どちらでもお気に召すまま、サインでけっこう、簡単な事務手続きをしなくちゃならなんでね』そんな具合に切り出したんだが、何の反応も無い。崔と景姫はおれが存在していないみたいに無言で向き合ってた。育ての親子だけが2人だけの世界にこもった。そのことがおれの自尊心をひどく傷つけたんだろう。たちまち抑えがきかなくなった。怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして脅した。数千回の銃殺を約束し、一方で福音を説いた。しみったれた現世的利益を保障した。望みの国籍・身分・職業・住居・賞与、年金もくれてやると言った。言葉がどんどん上滑りしていく。こんなはずじゃない。だが、おれは声を嗄らして喋り続けた」
岸部は無造作に話を続ける。
「やがて時間がきた。帰らねばならない。あれじゃまるでシンデレラだよ。景姫は席を立った。途端におれはもう言葉が出なかった。景姫の顔をうかがった。何と表現したらいいのか、景姫は不思議な表情をしてたよ」
「悲しみ」私は言った。
岸部はカップをテーブルに置いた。両腕を頭の後ろで組む。私の言った言葉に考えをめぐらせてから言った。
「そうだな。悲しみ。でも、お前の言葉は辛い、苦しい、悲しいという意味での悲しみではない。そうだろう」
「ああ」
私はかすかな驚きを感じた。岸部が自分と同じ感慨を抱いていたのだ。
「景姫は〈ラグーン〉から出て行った。それでジ・エンド」
「松岡は景姫を娘だと認めたのか」
「逆の問題もある。景姫が松岡を実の父として認めたかどうか」
「君の考えは」
「2人はよく似ていた。顔がそっくりだ。あれは誰が見ても父娘だ」
私自身、松岡と職務で顔を合わせたのは数回しかない。思い返せば、話した記憶があまりない。私のような一般職に対して松岡は天上人に等しい。顔貌が思い出せなくても無理はない。そういえば、先日会ったはずの景姫の印象もすでにおぼろげだった。
そうか。あれがスパイの顔か。私はそんなことを思った。
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