[12]
「今度は景姫の番だった」岸部が言った。「接触を要求してきた。日時、場所、方法は向こうが指定する。モスクワ・ルールに従うこと」
「モスクワ・ルール?」
「一切合切、景姫がイニシアチブを執る。さもなくばナッシング」
「ナッシングとは何を意味する?」
「あの手紙を暴露しても良いということだ」
「なら本国へ送還されて処刑場行きだ」
「景姫は自分から処刑場に出向いてもよい。そうやって、逆に島村を脅迫したんだ。景姫が切れるカードは自分の銃殺だけだ。そのカードを切り続けた。島村はウィーンの街中を引きずり回された挙句に、平原のトウモロコシ畑の刈り跡に放り出された。寒さに震えていたところを景姫の車に拾われた。車の中で、島村は亡命計画を打ち明けた。景姫は亡命をあくまで否定したが、父親との再会に関しては即答を避けた。それから数日経って、お前に回答を寄越した」
「私に?」
「ホテルに電話があったはずだ」
「マダム・コウからの電話?」
「そうだ。景姫が父親との接触を了承する気になったら、偽装を兼ねてお前に連絡する手はずになっていた」
「しかし、あの電話は絵画のコレクションがどうたらこうたらという話だった」
「電話自体が了承のサインだ。細かい点は忘れたが、電話の日時や会話の中の隠語、マドリードのチャンの推薦だと言ったかどうかで次の接触方法が指定されてたはずだ。お前が報告した時に、島村はサインを確認した」
「市庁舎前の公園か」
私は思い出した。むさくるしい男が2人、公園のベンチで凍えて震えた夜。
「おれは東京にゴーサインを出して、崔と結城を出発させた」
私は先をうながした。
「〈ラグーン〉でのことだ。アルバニア人が経営してた薄汚いレストラン。私は崔霜成と店内で景姫を待ってた。2階で1階の会話を録音してたはずだ。モニタしてたのは誰?」
「おれともう1人」
「誰だ?」
「松岡聡一郎」
岸部が口に挙げたのは外務省で数代前に務めた外務審議官の名前だった。
82年、アメリカに亡命した元KGBのスタニスラフ・レフチェンコ少佐は米議会の秘密公聴会で日本国内に潜む30人を超えるエージェントの
外務省は独自に内部調査を行ったが、エージェントに該当する疑わしき人物は存在しないということで調査を打ち切った。外務省の調査結果を公表されてから1週間後、当時の外務審議官だった松岡は省を辞めた。今は民間の調査機関に顧問として雇われているはずだった。元関東軍の情報参謀で今でもドイツ語とロシア語に堪能だという松岡は特に、《ナザレ》か《レンゴウ》のどちらかに最も近い人物としてみなされていたはずだった。
「松岡が現地入りしたのはいつ?」
「崔霜成と同じ飛行機で来た」
「松岡はどういう資格で、〈ラグーン〉の二階にいた?」
「実際に《トロイア》作戦の指揮を執ってたのは松岡だ。松岡は崔が陸士(陸軍士官学校)にいた頃の上司だった。崔は松岡に景姫の手紙を見せて、娘を亡命させたいと話した。それで、松岡は古巣の元部下の結城に話を持ちかけた。結城は松岡のイエスマン。おれは世間知らずのひよっこ」
「島村は?」
「松岡のパートナー。対等に口をきき、片腕となって動いた」
「ではあの時、島村はどこにいたんだ?」
「店の裏手。路地の暗がりに停めたバンの中から、逆監視してた」
私はあの日の〈ラグーン〉における人員の配置を頭に入れる。
「景姫が現れると、店主は表からドアを閉めて閉店の札を下げた。私はフライトをチェックインするために、空港へ向かった。その後はどうした?」
「松岡が1階に降りた」
私は〈ラグーン〉における空白を埋める前に、整理しておくべき問題について質した。
「ひとつ確認しておきたんだが、崔景姫は本当に崔霜成の娘なのか?」
「何が言いたい?」
「崔景姫のパスポートが松岡聡美名義で申請されていた。名前はともかく、父親の日本名と苗字が違う。父娘なら苗字を同じでも良いはずだが、何を意図してたんだ?」
「景姫を《北》の追跡から匿うための偽装。結城がそう説明した」
「松岡聡美は実在しない?」
「景姫が松岡聡美だよ」岸部は感情をまじえずに言った。
「どういうことだ?」
「崔景姫は松岡聡一郎の娘だ」
私はうなづいた。それが《トロイア》作戦の秘密ということか。だが、それだけでは景姫が亡命を拒否した理由になりはしない。
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