[11]

 深呼吸する。私はあらためてレベッカの顔を思い出そうとした。だが、それも上手くいかなかった。脳裏に浮かんでくる顔は昔、小さい頃の妹の顔ばかりだった。

 敵の監視を受けた経験を積んだ者として、私には恐怖が眼に見える。街を闊歩する平和な顔つきをした人々のすぐ背後に張りつかれる恐怖。その耐えがたさ。私は今回の任務ほど理不尽に感じたことはなかった。

 紫のスーツを着た女を横目に見ながら、妻の黒髪を思った。その時、私は〈ラグーン〉で見た崔景姫の姿を無意識に考えていた。景姫の面影を消し去りながら、なぜか胸に軽い痛みを覚えた。

 4週間前―。

 本省から届いた電報を読んだ時、私は作戦が失敗したことが信じられなかった。なぜ土壇場になって景姫は亡命を拒否したのか。今となってはそれを知る術はないだろうに、私は結城と島村を探したが、2人ともどこかに姿を消していた。ようやく大使館の副領事室で岸部をつかまえた。顔の表情で「話がしたい」と告げた。

 岸部の秘書であるアンナが2人分のコーヒーを入れた。岸部がアンナに「電話を取りつがないように」と言ってドアを閉めた。アンナは大使館が現地で採用したオーストリア女性だった。私は作戦当初から思い当たっていた疑問をぶつけてみる。

「君は副領事としてこの大使館に送り込まれた。島村はGATTに関する欧州の動向を調査する名目で自由に動き回っていた。君たち2人に対して、私はただの囮だった。それなのに、景姫は私がかけてきた電話ひとつでおびき出された。普通なら有り得ないことだ」

「過去の実例から言えば、そもそも《北》のリクルートの基準がデタラメだ。連中は日本人でよければ、誰でもよかった」

「そうだ。私はパスポートさえ手に入れば御用済みになる程度の人物だった」

「君は優秀だよ」

 岸部は深みのある声で答えた。

「では、こう言い直そう。私は霞が関でも最も地味な顔のひとつだ。海外の経験も少ないから、対外機関の眼に触れたこともあまりない。拉致しても何の役にも立たない。たしかにマダム・コウと名乗った景姫は電話をかけてきた。しかし、彼女の熱意をまるで感じなかった。私に食欲をそそられているとは到底思えない」

 岸部が机の引き出しを開けて取り出したのはウィスキーのボトルだった。自分のコーヒーカップにウィスキーを注いだ。岸部は勧めてきたが、私は断る。岸部がカップを持ち上げる。乾杯。少量かつ速いピッチでカップを口に運ぶ。

「君を騙すつもりはなかった」岸部は落ち着いた声で言った。

「分かってる。囮に手の内を全て明かすのは得策ではないからな」

「景姫は君が囮だと知りながら、近づいたのだ」

「味方を欺くために?」

 岸部はうなづいた。

「そうだ。景姫とはすでに打合せ済みだった。《北》に悟られないように接触するには適当な方法だった」

「では、マドリードのチャンという人物は?」

「《北》のエージェント。本物だよ。こちらが彼に君のことを話した」

「景姫と打ち合わせたのはいつ?」

「君がウィーンに入った時には、すでに進行中だった」

「誰が接触した?」

「島村だ」岸部が懐かしむように言った。「ありふれた手だと言ってたよ」

「聞かせてくれ」

 私は誘われるままに言った。

「島村が言うには、景姫が独りでショッピングかなんかを愉しんでる時に声をかけたそうだ。『お独りで淋しくはありませんか。あなたは運がいい。私もラッキー』そんな感じだ。堂々と正面から姿を見せるのが、相手を脅えさせないコツなんだとか」

 岸部はニヤニヤ笑っていた。

「島村は花束を持ってうるさくつきまとった。なんて胡散臭い奴なんだと相手に思わせる。何でもいいから気を引く。そして、景姫の手にそっと手紙を握らせた」

「景姫が崔霜成に当てた手紙?」

「そうだ。島村は何も説明しない。何も指示しない。謎めいている。景姫は自分で考えざるを得ない。自分の手紙が見知らぬ日本人の手を経て舞い戻ってきたことの意味を」

 あとは監視するだけ。じっくりと圧力をかけていくだけ。異国の地で敵視され続ける無言の圧力に耐えられる者などいない。私は自分のことのように恐怖を感じた。

「やがて景姫からメッセージが届いた。景姫は味方の相互監視を振り切り、こちらの監視下に自分から入ってくるパターンを何度か示した。もう少し詳しく教えて欲しいというわけだ。島村は景姫がいい奴だと言ったよ。恐慌をきたして上司に報告するなんて、バカなマネはしない女だと断定した。プロはお互いに手の内が読めて仕事がやりやすい。おれたちには信頼関係が成立したのだとも言った。そして、第二段階に入った。現体制を露骨に批判した手紙を見せて、景姫の退路を断った」

 私はうなづいた。

「ウィーンから投稿された手紙だな」

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