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リーベンベルクガッセは市立公園の裏手にある小さな通りだった。通りの両側に何軒かレストランやバーが立ち並んでいる。どちらかと言えば夜の盛り場だった。けばけばしいネオンで飾り立てたナイトクラブの脇の路地を入ると、青果店の隣に小さな薄汚れたレストラン〈ラグーン〉がある。
店の前に積んであるジャガイモの袋に腰かけて、でっぷりと太ったアルバニア人の店主が包丁でジャガイモの皮を剥いていた。たまに店の入り口のドアに手をかける人が来ると、包丁を邪険に振って追い払っていた。
金曜日の午後3時。人通りが少ないこの時間帯にレストランの貸し切りでは目立ちすぎる。私はそう思った。接触の場所としてはあまり相応しくなかったが、島村も岸部もウィーンに土地勘のない割に最善を尽くした方と言えよう。
「天羽さん、娘は来るでしょうか?」
崔霜成が静かに言った。腰の低い言葉づかいだが、官吏におもねる響きではなかった。私は崔と向かいあって座っていた。店内は私たちの他に、誰もいなかった。2階から時おり何か物音が聞こえる。誰かがこの会話を録音しているのだろう。岸部が店主を買収したからだろう。
「大丈夫ですよ」
私は入口をちらっと見てから言った。私の眼の前にいるのは、ヒグマを思わせる大男だった。結城が暗号名を北欧神話の巨人にあやかったこともうなずける。顔の骨格も体型もどこか丸みを帯びて優しい雰囲気を漂わせていた。崔は私が懐いていた韓国人の父親像とは違っていた。その茫洋とした風貌には、女房と子どもに夜逃げされた経験でもあるのではないかと勘繰らせたりもした。
「おたくの結城さんには、大変お世話になりまして・・・」
「はぁ」
崔霜成は「朝鮮籍」だった。「朝鮮籍」は旅券を持たない日本在留外国人であり、海外渡航をする際は法務省に再入国許可を申請する。その許可が下りると、それに付随して出入国管理局の「局長証書」という旅券の代用品が支給された。
崔が景姫の亡命を支援するためにウィーンへ旅立つには「局長証書」が必要だった。朝鮮籍の所有者には渡航地や渡航目的に厳しい制限が設けられることが多かったが、担当部署の根回しに結城が随分と苦労したのは耳にしていた。
景姫を脱出させるためには、パスポートが必要だった。景姫を書類上、日本人に帰化させる。その上で日本政府発行の真正パスポートを用意した。大使館で私は岸部から景姫のパスポートを手渡された。パスポートの名前の欄を見る。私は思わず眉をひそめた。
松岡聡美。父親である崔霜成の日本名の苗字は「北村」だった。偽名であるから気にするまでも無いだろうが、父親と苗字が違う名前を付けるのはどういう了見なのか。そもそもこの名前を以前にどこかで見た覚えがある。
不意にドアが開く音がした。外の喧騒が入り込んでくる。私は顔を上げた。
景姫だった。店主がドアを閉める。崔が身をよじって娘を見ていた。
景姫は黒っぽいスーツを着ていた。入口から崔霜成を見据えていた。
父に似て大柄な女だった。細身でもあり、成熟した女のふくよかさを湛えていた。ごく自然にすっと背筋を伸ばした姿勢にどこか他人の心を打つものがあった。顔貌は歳に比して若い。そう思った次の瞬間、とてつもなく長い人生を重ねたようにも見える。かすかに口元がねじれている。知性と意志の強さを感じさせた。
私は席を立って景姫の傍らをすり抜けた。景姫とは視線を合わせなかった。
裏口から〈ラグーン〉を出た。景姫の表情に貼りついている不可思議な悲しみが私の心に残った。通りでタクシーを拾ってウィーン国際空港へ行き、ミュンヘン行きとフランクフルト行きの航空便をチェックインした後はロビーで待った。しかし、いつまで経っても景姫と崔は空港に現れなかった。結城も島村も現れず、誰も作戦が失敗したことを知らせてくれなかった。
翌日、霞が関から大使館に電報が届いた。結城が部下に命じて打たせたのだろう。
《作戦ガ発覚シタ。ホトボリガ覚メルマデ帰国ヲ禁ズ》
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