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 私は強制的に休暇を取らされた。情報分析官という自分の職務では海外出張の名目が見つからなかったので、自費による語学研修のための休暇ということにした。局長に休暇の件を話したが、すでに誰かが根回しをしていたのか、休暇はすんなり認められて拍子抜けした。

「珍しいですね。天羽さんが休暇なんて」葉山が言った。

「今の時期ぐらいしか勉強できないから」

「今はどの国だって大変な時期ですよ。それなのにお勉強ですか」

「そんな大事は毎日起こらないよ。心配するな」

「そうだといいんですがね。今日は平壌で政府幹部が粛清されたって未確認情報が韓国から来てますが。これも大韓航空機爆破事件の余波ですかね」

 私は思わず聞いた。

「《北》の政府幹部が粛清?誰が?」

「えっと・・・」葉山が机の上にあったファクシミリを手に取る。「許正麟ホ・ジョンリンですね」

「大物じゃないか。ガセじゃないのか」

「先輩は許を知ってるんですか?」

「知ってるも何も、許は朝鮮労働党作戦部の要職に就いてたはずだ。三号庁舎のスパイだぞ」

 三号庁舎とは平壌に建つ《北》の対南工作を担う部署―作戦部・統一戦線部・対外情報部が集まっているビルのことだった。以前に平壌の情報機関に関するレポートをまとめた際、許や三号庁舎について少し調査したことがあった。個人的に気になる点があり、私は葉山に情報のウラを取っておくように頼んだ。

 本省の人事課で手続きを済ませた後、私は新宿の百貨店に立ち寄った。その後、ここ数年一度もしたことのなかったことをした。世田谷の官舎に帰る途中で商店街の花屋の前を通った時、眼についた花を買った。夕飯も食わずに官舎に着いたのは午後10時前だった。

「あら・・・帰ってきたの。今夜は夜勤だって、朝言ったわよ」

 妻にそんなことを言われた。

「そうだったかな。忘れた」

「具合でも悪いの?」

「いや・・・」

「何かあったの?」

「そうだな。結城からはいろいろと怒られたし」

 突然、妻がふっと華やいだ表情になって笑いだした。

「何がおかしい?」

「あなたでも怒られることがあるのかと思って」

 亭主の当惑にもかまわず、妻は機嫌よく笑っていた。

「子どもたちは?」

「もう寝てるわ」

 私はリビングと隣り合う和室の引き戸を静かに開けた。布団に包まっている二人の息子の寝顔を確認する。まだ小学生だった。

「あなたもヘマをやることがあるんだというのは大発見よ」妻が言った。「あたしはひょっとしたら、機械と結婚したのかと思ってたんだから」

「機械で稼ぎが悪けりゃ、言うことないな」私は戸を閉めた。

 同じ省内に棲息しているが、私のように専門職員採用された者と、結城のような国家公務員試験に合格した者は別の道を歩んでいる。1週間ほど前に妻から3人目の懐妊を告げられた時は嬉しくもあり、少し複雑な気持ちになった。いつかは手狭になるこの官舎を出て広い家に引っ越すべきだが、これから先の出世を考えても、先立つものに不安を感じる今の身分だった。

「手に持ってる紙袋はなぁに?」

「出張用の背広と、お前へのプレゼント」

 結城から仮払いをうけ、新宿の百貨店で灰色の背広を買っておいたのだった。あらためて着てみる。袖も裾丈もひどく短かった。それがかえって田舎者風の観光客を強調することがわかった。姿見の前で、2人で立ってみる。お上りさんみたいな私の隣で、妻は白いブラウスの首元に、プレゼントに買ったチェック柄のスカーフを巻いた。我ながらきれいだと思った。

 妻がニヤニヤし始めた。私も一緒にニヤニヤした。

「あなた、今日はやけにハンサムよ」

 私は欧州のいくつかの語学学校への留学手続きを取り、入手した学生証に旅行保険の書類を添えて岸部に手渡した。3日後、学生証の名義が私の本名から「小林英市」に書き換えられて戻ってきた。一緒に同じ名義のパスポートも渡された。

 列島に秋雨前線がどっかり腰をすえていた9月下旬、私は本人名義のパスポートで日本を出発した。シンガポール航空南回りでロンドンに向かった。

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