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〈1988年11月30日〉
私は喫茶店に入って通りが見える窓際の席に座った。ウェイトレスにブラックコーヒーを注文する。
「アイスでよろしいでしょうか」
私は一瞬、ウェイトレスの言葉に面食らった。
「ホットを」
不意に、これで声を聞かれたと思った。
しばらくしてコーヒーがテーブルに置かれた。喉は乾いていなかったが、私がひと口だけ無理に啜った。駅の売店で買ったタブロイド紙を広げて紙面に顔を落とす。下品な写真や活字を眼にするのは苦痛だったが、こういうビジネスマン風の恰好をしている限り、一番目立たない小道具がタブロイド紙だった。学生風の姿なら、車の雑誌が週刊誌。普段なら、決してどれも手にしない。時間潰しに昨日起きた大統領府爆破未遂事件の記事に眼を通しながら、私は喫茶店にいるほかの客に眼を配った。
喫茶店としては大きい方だろう。以前から数日かけてこの店の様子を観察した限りでは、この店では早朝から入れ代わり立ち代わりする客で席が温まることがない。昼にはランチを食べる観光客やビジネスマンで混み合い、午後は待合や商談に使う客が増える。夕刻のこの時刻は、客はまばらだ。
私が店に入った後、しばらくして入ってきた男女が奥にいる。ミニスカートのスーツを着て髪を長く伸ばした若い女と、ビジネスマン風の中年男の組み合わせ。どちらもちっとも楽しそうな表情でないのが印象的だ。人目をはばかる逢瀬なら、もう少しにやけた顔をすればいい。別れ話なら、もっとムードのある場所を選んだらいいものを。
その男女の席から空のテーブル3つはさんで、私と同じタブロイド紙を広げている男がいる。コートにスーツ姿だが、まともな勤め人ではないのは顔を見れば一目で分かる。左の眉毛に大きな切り傷の跡。指に大きな指輪。ノーネクタイ。マフィアか。こんな街のど真ん中の喫茶店で、1杯のコーヒーでねばって何をしているのか。
マフィアと背中合わせのテーブルも、素性の知れない中年の男が独りでコーヒーを啜っている。隣の空いた座席に小ぶりのアタッシェケースを置いている。そのケースからおもむろに取り出したのが、遠目にも裸の女性と分かる写真が表紙を載っているポルノ雑誌だった。人目が恥ずかしくないのか。ポルノ雑誌を眼の高さに掲げてページをめくりながら、時どき腕時計を覗いている。ごく真面目な風貌とそつのないビジネスマンの身なりなのだが。ポルノ雑誌を手に、いったい誰を待っているのだろう。
通路をはさんで、店の中央寄りのテーブルの方にも2人いる。1人は女。いま店にいる客の中で私と同じ東洋人の顔をしているのはこの女だけだ。ブランド物らしい紫色のスーツを着て足を組み、煙草をつまんでいる指先の爪が赤い。化粧も濃い。まだ20代だろう。誰かを待っている顔だ。おおかた、クラブでひっかけた男かマフィアの情婦か。
5分ほど前、女の隣の席に得体の知れない男が1人座った。ジャンパーとジーパンにローファーという身なりで、歳は私より少し若いように見える。30手前ぐらいか。髪を短く刈り、顔貌はなかなか精悍な男前だ。
男は紙袋を足元に置いた。突然、片手いっぱいに握っていたらしい小銭をテーブルにジャラジャラとばら撒いた。私は道路に面したガラス窓の反射で客たちの様子を見ていたが、その時は思わずちらりと顔を振り向けた。ジャンパーの内ポケットから今度は財布を取り出す。小銭を1枚ずつ数えながら財布に収めた。男は運ばれてきたコーヒーに手をつけず、ジャンパーから名刺を2枚取り出した。名刺を1枚ちぎって灰皿に捨てた。
次にジャンパーのポケットからボールペンを取り出して、残りの名刺1枚に何かを書きつけた。それをしばらく眺めてから財布に収める。男はやっとコーヒーを一口啜り、今度は紙袋からタブロイド紙を広げた。よく見ると、私が広げているのと同じ新聞だ。新聞を読み始めると、男はしばらく動かなくなった。生業が何であるのか。人を待っているのか。休憩しているのか。全く想像が及ばない。どこか不気味だ。
喫茶店にいる最後の客が、私の座席と背中合わせの位置に座っている。さかんにタバコを吸い、全国紙からタブロイド紙まで雑多な新聞をテーブルに置いている老人だ。椅子に斜めに座り、ガラス窓の縁に肘をついている。ウェイトレスを片手で呼びつけては「水、お代わり」と言う。その様子から、常連かも知れない。
私と同じ時間に同じ店に居合わせたのは、そのような客たちだった。たった今、客がもう1人増えた。さっき駅で私を尾行していた中年のオッサンだ。
地味なコートとスーツ姿。書類カバンを提げている。男は店内を見渡してから私とは反対側の奥の方に向かい、あの不倫の男女と通路ひとつはさんだ席を陣取った。カバンからタバコを取り出して火をつけ、一口吸った煙草を灰皿でもみ消した。
少し首を伸ばせば、私の方が真っ直ぐ見渡せる位置だ。私はしばらくガラス窓に映った男の挙動を見張った。男は用心深くなり、こちらを窺う素振りは見せなかった。あらためて見ると、これもどういう人種かいっこうに分からない。ビジネスマンでもない。公務員でもない。女に縁のありそうな顔でもない。
私は新聞に眼を戻した。ジャンパーから小銭を取り出した男も、今はタブロイド紙で顔が隠れている。顔に切り傷のあるマフィアも同じ新聞を広げ、片足で貧乏ゆすりをしている。店の奥にいる不倫の男女は相変わらずむっつりと睨み合っている。どこかのクラブの女は欠伸をしながら、ぼんやりと天井を見ている。
時刻は午後6時50分。レベッカはまだ店にいるのだろうか。
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