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 島村が欧州に派遣されたのは、3月末のことだった。結城が手を回して経済局に配属された島村はGATT(関税と貿易に関する一般協定)に関する欧州各国の動向を調査するという名目で出張した。島村は欧州の在外公館を拠点に、とりわけ彼が独自に東欧で構築した情報網を活用して、手紙の人物を特定した。

 約1か月後に帰国した島村の報告によると、崔景姫は予想外の大物だった。欧州において日本人拉致およびリクルート作戦を展開する対外情報調査部の将校。現在はウィーンを拠点とする部隊のナンバー2。

 私たちは景姫とウィーンで接触し、景姫をウィーンから日本に亡命させる。作戦名は《トロイア》。ギリシャかぶれの結城らしい命名だと思った。《北》の魔手から《ヘレン》こと景姫を奪おうというのだ。私の役割は《ヘレン》を誘い出すための囮だった。北朝鮮の諜報機関に拉致される役である。

 目白の屋敷で何度目かの会合を終えたある日、私は結城に「ドライブしよう」と声をかけた。公用車は私が運転した。本省に帰る道すがら、私は囮を務まる自信がないと正直に話した。助手席の結城は鼻をくくったような言い方で切り返してきた。

「お前の任地、どこだった?」

「ルクセンブルク、ガボン、イランの総領事館。調べてもらえば分かる」

 結城は力説した。

「《北》からすれば、お前はCランクがいいとこだ。実際に拉致されることは絶対にないから安心しろ」

 本題は結城から切り出してきた。

「それから、いい加減おれをドライブに誘ったわけを話したらどうだ」

「分かるか」

「何年、付き合ってると思ってるんだ」

 私はひと息入れてから口を開いた。

「《ユミール》のことだ」

 結城はうなづいた。

「《ユミール》情報は大阪の実業家から渡されているという話だった。その実業家というのは崔霜成だろう」

「お前の言う通りだ」

「どちらが先に接触したんだ?」

 結城が事の経緯を話し始めた。外務省に最初の手紙が届いたのは10年前の12月。投函場所はハバロフスク。翌年の3月にはナホトカ。内容はいずれも極東地方のKGBに関する噂だった。手紙の末尾に「Ymir」と署名されていた。

 北東アジア課は手紙の中継経路を追跡したが、《ユミール》の正体も動機も掴めなかった。結城はとりあえず《ユミール》を「離反者情報」として分類した。ランクはD。内容が低級な情報ばかりであり、KGBが故意に流した欺瞞情報である可能性を捨てきれなかったからだ。その後も《ユミール》から手紙は続いたが、いつしか何の前触れもなく手紙は途絶えた。

「ところが5年前の夏、約3年の空白を置いて《ユミール》から再び手紙が届いた」結城が言った。「内容ががらりと変わった。《北》の内部資料が添付されていた」

 北東アジア課は匿名の情報源―《ユミール》を特定する作業を本格化した。《ユミール》が《北》の内部事情に詳しい人物であるという前提に立って再調査すると、意外に簡単に身元が割れた。10年前に遡って手紙の投函日付を調べると、日付に特定のパターンがあることが分かった。日付は《北》の通商使節団がソ連の極東地方に来訪した日と重なっていた。その使節団と同行していた崔霜成が手紙の送り主だと分かった。

「それで自分が崔に接触して獲得した」

「崔はただの商売人だろう」私は訊いた。「内部資料に触れる機会なんてあるのか?」

「崔いわく自分は仕事柄、ソ連の極東地方や生まれ故郷の咸鏡北道に頻繫に出入りしているし、情報機関の連中ともたまに会うこともあると言った。だが、お前の疑問も当たり前だ。おそらく平壌に下部情報源がいる。崔は代理を務めてるだけだろう」

「動機は?」

「金だ」

「金なら腐るほどあるだろうに」

「深くは知らん。愛人でも囲ってるのかもしれん」

「《ユミール》って何の符牒なんだ?」

「崔の見た目だよ。お前も崔に会ってみればわかる」

「今も健在なのか?」

「去年の大韓航空機爆破事件が起きてからは連絡がない。おそらく平壌の下部情報源に何かあったんだろうが、確かめようがない」

「袴田審議官がその件について、省内で訊いて回ってるようだ。俺にも聞いてきた」

「あれは赤坂に揺さぶられたんだ」

「アメリカが?どうして?」

「《北》に関する情報は常に枯渇してる。ラングレーでさえ《北》情報の大半を韓国の国家安全企画部からおこぼれをもらってるような状態だ。そこに《ユミール》だ。われわれに出し抜かれたくない一心から《ユミール》情報は《北》の対日浸透作戦の一環であり、あれは偽情報であるという風に袴田を揺さぶったのだ」

「《ユミール》の下部情報源というのは《ヘレン》のことかな」

 結城は何も答えなかった。余計なことを言ったかな。私は不意にそう思った。

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