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「崔霜成は景姫の父親」結城が言った。「日本名は北村紘一」
「その名前、聞いたことがあるな・・・」私は呟いた。
「パチンコ、金融」島村が言った。「食品加工、船舶までやってる北陽興業の創業者」
崔は中露国境に近い咸鏡北道出身の朝鮮人でありながら、戦時中に日本の陸軍士官学校を卒業した陸軍大尉だった。終戦間際、ソ連軍が迫るハルビンから命からがら逃げ出し、その後は大阪で一大企業を起こすという立志伝中の人物。私は脳裏でぼんやりとそこまでのデータを思い出していた。
結城の話は続いていた。
崔景姫はハルビンに生まれ、終戦時は2歳だった。母親、つまり崔霜成の妻は1946年に死亡。景姫はその後、大阪で育ち、高校を卒業した1962年に単身、日本から北朝鮮に帰った。景姫は当時、19歳だった。
景姫が帰国した前後というのは、社会主義宣伝が攻勢に出ていた時代だった。在日の若いコリアンたちは祖国の建設に意気軒昂と馳せ参じていったのである。
「俺には、わからんね。あんな荒廃した祖国に戻るなんて」岸部が口をはさむ。
「あのころはまだ、国の実情は伝わってなかったと思う」私は言った。
「男だろ」島村が吐き捨てるように言った。「小娘ひとりで帰ろうだなんて、考えられるもんか。男だよ、駆け落ちに決まってる」
景姫から父に宛てた最初の手紙には若者特有の覇気が漲っていたが、それも長くは続かなかった。数年を経ずして文面はよそよそしくなり、物の無心ばかりが目立つようになった。サッカリン200キロ、毛布50枚、布地を送れるだけ。北の実情が次第に明らかになり、起業した崔は朝鮮総連を通じて、収益の一部を祖国に献金した。
海外からの最初の手紙は77年3月、アムステルダムから届いた。景姫は突如、海外勤務を命じられた。外務省に登用されたのだという。崔は自身の献金のお蔭だと思っていた。
「崔景姫が《北》の外務省の職員であるかどうかは確認事項である」結城が言った。
「偽装だな」
島村が言わずもがなのことを言った。
景姫の手紙は欧州のあらゆる都市から投函されていた。80年4月はハンブルク、83年7月はコペンハーゲン。海外の勤務者に対しては検閲が無いためか、文面にはユーモアさえ漂い始める。いかなる権力に屈しようとしない意志が垣間見えてきた。
84年10月にウィーンから投函された手紙は、景姫が決定的な時期に差しかかっていることを父親に確信させた。景姫は手紙の中で、欺瞞に満ちた社会と監視国家を呪い、お粗末な強硬路線を嘲り、経済政策の致命的な欠点を弾劾し、そして偉大なる《領袖》を『希代の詐欺師』とこき下ろしていた。
そこで崔霜成は外務省に接触して、娘を亡命させたいと言ったのだった。
「この手紙それ自身が一級の資料的価値を持つだろうか?」
結城が問いかけた。ラングレー(CIA)を含めてどこかに売りさばく可能性を示唆していた。
「手紙だけでは安手の反共宣伝にしか使い道はない」島村が言った。「しかし、当人の身柄と合わせれば、南に間違いなく売れる。北になら、もっと高く売れる」
岸部はもっと冷ややかだった。
「こんなものメロドラマじゃないか」
私はどちらかと言えば島村の見解に近かったが、その意見をあえて聞こうという者はいなかった。ともあれ4人が一致したのは『景姫は必ず落ちる』ということだった。
そこで、結城が警告を発した。
「われわれが北の実態を把握する上で、必要不可欠な事実は語られてるか?」
手紙のコピーを振りかざした。
「役職名、階級、所属部署、指揮系統、何も語られてない。明記されたのは、偉大なる《領袖》。この一言だけだ」
「何が言いたいんだ?」岸部が言った。
「接触を求めてきた敵の離反者が必ずやるように、彼女はこの手紙で国家の機密を明かすつもりがあることを少しでも仄めかしているのか?違う。これは何を意味しているか?彼女は革命への裏切りと腐敗を断罪しているが、われわれへの愛は打ち明けてはいない。亡命は至難になるだろう」
今となっては、結城の懸念は現実になった。あの時、結城は事件の顛末をどこまで予測していたのだろうか。私は今でも胸の奥でいぶかるばかりだ。
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