[3]
再び私が《ユミール》の件を気にするようになったのは1週間後のことだった。
その日は情報調査局のオフィスで中国課の職員と一緒に、事務次官に提出する予定のレポートを連日徹夜でまとめている最中だった。いま取り組んでいるのは中国共産党政治局に関するレポートだった。党内で改革派と見られていた胡耀邦が改革派と保守派の双方から批判され、総書記解任にまで追い込まれた。なぜ解任に追い込まれたのか。
「天羽、天羽正徳はいるか?」
大声で呼ばれて私は顔を上げる。島村武彦が局の出入口のドアに立っていた。島村は中欧・東欧課員で先日、プラハの大使館から戻ってきたばかりだった。島村と廊下で顔を突き合わせる。
「何だ?コッチは仕事中だ」私は言った。
「それはもう終わりだ。結城から《別件》の連絡があった。話は付けてあるから、早く上着を取ってこい」
私は島村の言葉を訝しく思いながらも、脱いでいた上着を羽織った。
結城は同期の中で一番の出世頭だった。今は北東アジア課の首席事務官。課の中で課長に次ぐポストだ。断れるはずがなかった。私たちは本省を出る。
外は生暖かい風がそよ吹く小春日和だった。私は思わず「あぁ」と欠伸を漏らした。
「情けない声を出すな」島村が言った。
近くの路地に停めてあった乗用車に一緒に乗る。島村がハンドルを握った。助手席に座った私は行く先を訊ねたが、島村は何も言わなかった。島村は生来の強面と度胸の良さで世界中の裏社会を渡り歩いているような男だが、本人が必要最低限だと思ったことしか話さないのが流儀だった。答えを諦めた私はまた欠伸をして、眠りに落ちた。
眼が覚めた時は、車が都電の早稲田の駅を通り過ぎていた。車は山手線の高架下をくぐり、新目白通りで停まった。島村が「着いたぞ」と言った。その割には、そこから北へずいぶんと歩かされた。
島村に案内されて入ったのは、和洋折衷の古い屋敷だった。屋敷の主を島村は明かさなかった。中年のきれいな女性に屋敷の中を案内される。庭に面したガラス戸を開け放った和室に通された。
2人の男がお茶を飲んでいた。岸部篤と結城徳郎だった。家具は高価そうな漆塗りの和卓だけ。畳はすり切れている。そこかしこで沈んでいた。岸部が口を開いた。
「やぁ、お2人さん、元気か」
岸部は眼の下にくまをつくっていた。国際法局条約課員として時々刻々変わる条約・条文を覚えては国会の答弁に備えるために、徹夜でオフィスに詰める日々を送っているせいだろう。
こうして同期入省の4人が集まるのは、久しぶりだった。4人とも本郷にある帝都大学法学部の出身だった。最初は専門職員採用のノンキャリア同士で、私と島村と岸部が知り合った。上司を馬鹿にしたり、次の異動先を賭けてトトカルチョをしたり、新橋のバーで飲むのも何でも一緒だった。それから数年が経ったある日の夜に偶然を装い、結城が新橋のバーに入ってきた。寂しがり屋だとわかったのは、ずっと後のことだった。
私と島村が腰を下ろした。中年の女性が茶を配った。ひと口ふくむ。こくのある旨い日本茶だった。岸部の弁では、結城が入れたそうだ。
「天羽のとこは、子どもが3人目だって?」結城が言った。
「奥さんから聞いたの?」
私の妻と結城の奥さんは同じ名門女子大の先輩後輩。亭主の知らぬ間に双方の家の個人的な事情が筒抜けだったりするが、個人的にあまり好ましくはなかった。
「島村、お前はまだだよな?」私は言った。
「頭のボケた爺さん、抱えてるんだ。子どもなんか作るヒマがない。昨晩も徘徊して交番のお世話になった。それより、岸部はいつ身を固めるつもりなんだ?」
「ああ。久しく女と付き合ってないな」
「まさか男が趣味とか」私は言った。
岸部はにやりと口角を緩める。
「たまたま、いい女に巡り合わないだけさ」
結城が「さあ始めるぞ」と言って雑談は終わった。
「《北》の外交官が我が国への亡命を希望してる。今からその検討を行いたい。まずはこれを読んで欲しい」
結城は何通かの手紙のコピーを全員に配った。手紙の差出人の氏名と宛先は全て同じだった。差出人は
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