第1章:作戦名はトロイア

[2]

 事の始まりは2月だった。

 早朝、まだ人けもまばらな外務省情報調査局のオフィスに入った私に後輩の葉山が声をかけてきた。当直明けの眠そうな声だった。

「アジア局の参議官から電話がありました。登庁したら、すぐに連絡をくれと」

 その役職名を言われて、私の脳裏に思い浮かべる名前は一つしかなかった。

 今のアジア局参議官である袴田は、私が入省した時の最初の上司だった。袴田はロシア語を専攻した語学専門職の私に対して技術職でもないのに、無線の講習を受けさせたかと思うと、入省2年目にガボン行きの辞令を出した。私は右も左も分からぬ若造ひとりでアフリカの小国の大使館に飛ばされ、惨憺たる生活を存分に味わった。

 朝から浅はかならぬ因縁がある名前を聞かされて、私は思わず苛立った。葉山に低い声で「何の用で?」と訊いた。私の思いなど素知らぬ葉山からは「さあ・・・」という鈍い返事しか返ってこない。

「今後は要件をちゃんと聞き出して、メモに取っておけ」

 私はそう言ってデスクの電話を取る。袴田はいきなり要件を切り出してきた。

「《ユミール》についてだ。知っていることを話せ」

「何ですか?もう一度言ってください」

 私はとっさに素知らぬ振りを決め込んだ。袴田は低い声で問いかけてくる。

「《ユミール》の件を調査したのは誰だ?」

「知りません」

 私はすばやく周囲に視線を走らせた。まだオフィスにいる職員の数は少ない。こんな電話でこんな話題を持ち出すとは。この電話も省内のどこかに訊かれているに違いない。袴田の気がおかしくなったとしか思えなかった。

 袴田は私の困惑にかまわず「答えろ」と続けた。

「あれは北東アジア課が運営していたはずです」私はしぶしぶ答えた。「聞くならまずはそちらに訊くべきなんじゃないですか」

「奴らに訊いてもなしのつぶてだ。お前は関わってたはずだ」

「ほんの使い走りです」

「それでも貴様は十分に関係者だ。知ってることを話せ」

 私はめまぐるしく頭を回転させた。この件について何を話していいのか。何を隠しておくべきなのか。

《ユミール》は外務省に北朝鮮―《北》の内部情報を提供している情報源の暗号名コードネームだった。《ユミール》が提供する情報にはハズレもあるが、その精度が高いことは私も知っている。私自身が北東アジア課から依頼されて《ユミール》情報のウラを何度か取ったことがあったからだ。そういう意味では袴田から指摘されるまでもなく、私はたしかに《ユミール》の関係者だ。言われてみれば《ユミール》は誰かが事前に調査したはずだった。

「貴様、外務省を愛しているか?愛しちゃいまい」

 私は途方に暮れて返事に困った。

「何かあったのですか?」

「《ユミール》から連絡がない」

「いつから?」

「去年の11月頃からだ」

 大韓航空機爆破事件と同じ時期だなと思い出す。

「もう一度聞く。《ユミール》の情報源は?」

「私は知りません」

 私はとっさに嘘をついた。以前に北東アジア課からある程度の説明は聞いていた。

《ユミール》は朝鮮総連の大阪支部に出入りしている実業家から手渡される《北》の内部情報である。その実業家が東京に出張してきた時、北東アジア課の課員が接触して情報の受け渡しを行っているそうだ。だがこの程度の話で袴田が納得するはずはない。

「調べたはずだ」

「私は知りません」

 袴田はこれ以上、私を問い詰める気を無くしたようだった。通話はそれで切れた。私はそのまま受話器を下ろす気になれず、余計な気を起こして北東アジア課に電話をつなげた。

「はい、森末」

 通話に出た相手は北東アジア課の課長補佐だった。

「天羽です。《ユミール》の件なんですが」

「いったい何の話だ?」

「アジア局の袴田参議官から《ユミール》について聞かれまして、あれは今どうなっているかと思って電話したんですが」

「いま課内で対処中だ。部外者は他言無用」

 森末はガチャンと通話を切った。私は受話器を下ろした。森末は《ユミール》について蚊帳の外に置かれている。ふとそんな感想を持ちながら、ようやく《ユミール》に何かあったなと思った。情報源からあるはずの定期連絡が途絶える。その空虚さに身を押し包まれて、私はその場で身震いした。

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