プロローグ
[1]
〈1988年11月30日〉
「何時に出られる?」私は声を殺した。
電話の声は《オーナーがまだ来ないのよ・・・》と低く答えた。ホームに入って来た電車の轟音でその声が一瞬かき消される。
《怖いわ・・・》電話の声が囁いた。《私、怖いわ。助けて・・・》
「しっかりしろ。心配するな」
レベッカはまだ勤め先にいた。その日は午後5時に店主と交替することになっていたようだが、もう6時を半時間も過ぎている。
私は最初から予定が狂い始めたのに苛立ち、失望していた。気を紛らわせるためにまた腕時計を覗いた。
「何時に出られる?」私はくり返した。
《7時半までには・・・》レベッカは言葉を濁した。
「ぐずぐずするな。八時まで待つ。俺は待ってる。必ず来てくれ」
《ええ、分かったわ》
レベッカの気弱な声を聞きながら、私は受話器を置いた。もうポケットに小銭は入っていない。電話はこれが最後だ。
ここはオーストリア、ウィーンにある南駅だった。南部のグラーツやクラーゲンフルトへ延びる路線がここから出ている。駅から200メートルほど離れた繁華街にレベッカはいる。だが、待つのは8時までが限度だった。ここからウィーン国際空港まで出て、フランクフルト行きの最終便に乗らなければならない。
私はボストンバッグひとつ手に、のろのろと公衆電話の並んだ台を離れた。ホームを吹き抜ける寒風で、ダスターコートの裾が吹き飛ばされた。寒さに思わず足がすくむ。私は待ち合わせ場所に移動することにした。人が多過ぎて一つ一つの顔が見分けられない程の雑踏は、私にもレベッカにも危険だった。レベッカには『心配するな』と言ったが、本当に安全なのかどうか。
得体の知れない白人の中年男が1人、さっきから私を見ている。電話をかけている間に気付いたその男は20メートルほど離れて、たしかに私の方を見ている。私を尾行しているのかも知れない。だがプロにしては隙があり過ぎ、尾行の仕方も拙い。私にはまったく身に覚えのない顔つきだ。
私は一度、男を睨み返した。それでも相手に動じる気配はなかった。結局、放っておくことにした。思い過ごしかも知れない。相手が何者であろうが、中年のオッサンにこっちこそ用はない。
南駅を出てファヴォリテン通りを北に進んだ。雑踏に身をまぎらせながら周囲に注意を払った。この数週間、誰かに監視されていると感じていた。路地。ホテル。大使館。至る所で監視者の圧力を感じた。私は通りかかった服飾店のガラス窓に、ほんの少し自分の姿を映してみる。服は借り物だった。スラックスにジャケットとダスターコートといういで立ちに、どこかおかしいところはないか。結び方が間違っているのか、ネクタイがどうも変に見える。私はマフラーをかき寄せてネクタイを隠す。服装を直しながら、ガラス窓の反射で背後の通りを検める。尾行者がいないことを確認してから再び歩き出す。
左折してコルシツキーガッセに入る。目的地が眼の前にあった。
2階建てのビルはこの都市によく見られる石造りだった。1階に喫茶店、2階はバレエ教室。レベッカには事前に1階の喫茶店〈ファイルヒェン〉に来るように伝えていた。今から1時間半もひとつの場所で待つのは気が進まなかったが、この雑踏や寒さもそれ以上にこたえた。
私は3か月近く会っていない妻の顔を思い浮かべようとした。だが、実は浮かんできた顔は妻のものではない別の女の顔だった。その顔貌が瞼に現れてくると、激しい動悸のようなものを覚える。私はひそかに歯を噛みしめた。
外務省のしがない一職員である自分がなぜこんな際どい亡命作戦に従事しているのか。私自身にもその理由が分からなくなってしまう。私の胸中に眠っていた騎士道精神がレベッカによって触発されたのだろうか。自分にそれだけの土壌がまだ残っていたことに驚きつつ、私は独り喫茶店を眼の前にして佇んでいた。
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