悪夢と霹靂
さくらが言った。
左手薬指で光る、大きなダイヤモンドがついたリングを嬉しそうにかざしながら。
「見てよ、耕太。ボク、結婚することにしたんだ」
「え、結婚……誰と」
「それはもちろん、風間さんだよ。昨夜プロポーズされちゃった」
「ど、どうして……どうして受けたの」
「だってさ、風間さんは大人の男の人って感じで仕事ができるし、かっこいいし、NSXをもってるし」
さくらは頬を桃色に染め、艶かしい流し目をつかってこちらを見る。
「――あとは、はじめてボクに、抱かれる喜びを教えてくれた人だから」
「抱かれる……喜び」
「じゃァね、今まで色々ありがとう。いい人見つけてね。バイバイ」
「待って、待ってくれよ、さくら。なァ、待ってくれよッ」
おかしい。
体が重い。どうしても、さくらの歩みに追いつけない。
遠ざかってゆく小さな背中。
ふと、咲き乱れる桜並木の向こう側を見ると、長身のあの男が真っ赤なNSXの前で待っていた。
「――待って、さくらッ!」
次に見えたのは、いつも見慣れた板目の天井。
ここは自分の部屋、ベッドの上。
ということは、僕は夢を見ていたということになる。
そうだ、夢だ。
でも夢でよかった。
酷い夢。
まだ全身が強ばり、少し震えている。
「――はぁい、何。苦しいよ」
聞きなれた声が僕の胸に当たり、体のなかで響く感覚があった。
とても愛おしい声。さっき夢の中で、そっけなく遠くへ去っていこうとした声。
僕は、その小さなさざなみの震源を見た。
さくら――
何とさくらが、僕の腕の中にいる。しかも身動きが取れないほど、僕が強く抱きしめているではないか。
円らな瞳が近くで寄り目になって、じぃっとこちらを見つめている。頬に微かな桜色が滲んでいた。
「耕太、もしかして、夢を見てうなされていたでしょ」
「うん、すごくおそろしい夢を見ていたよ」
「それは大変だったね。ところであのさ、放してくれる。さっきから力強すぎ」
「あッ……ご、ごめん」
さくらは「ふう」と溜め息をつき、絨毯の上へペタンと尻を落とした。
近頃は、そうした仕草の一つひとつがますます女の子っぽくなってきていて、僕はいちいち見入ってしまう。
だが決して個人的な趣味ではない。すべては、奥野山のさくらんぼと桃を売るためであって、極力男と覚られる動作を排除しようとした努力の賜物だ。
まだ僕の意識は、夢と現実の境界をふわふわとさまよっていた。
「ねぇ、さくら。どうして僕の部屋にいるの」
「もう、どうしてじゃないよ。昨日はLINEの返事がなかったし、今朝はいくら電話してみても電源が入っていないし。何かあったのかなって心配したよ」
「あ、そうだった。ゴメン……」
呆とした頭のまま、スマホに電源を入れてみる。確かにさくらからのLINEメッセージが届いていて、『帰ってきたよ。晩ゴハン一緒に食べいこうよ』と昨日の午後四時三分に入っていた。なんだ、そんな早くに帰ってきていたんだ。初めてサーキット走行を体験した話を聞いてあげればよかったと後悔する。
あとは今朝の七時過ぎぐらいから、さくらからの着信があったことを知らせるメールが、たて続けに届く。
今は朝の八時五分。
さくらは僕が乱してしまった髪を手で直しながら言った。
「早く、シャワー浴びてきてよ」
僕は一気に目が覚めて、跳ね起きた。
「えッ、それはどういう……。も、もしやッ、抱かれる喜びが知りたくなったの」
「はァッ!?」
さくらは目を丸くして、唖然として僕の顔を見上げる。
「耕太、いま、なんて言った」
「いや、だからさくらが抱かれる喜びを知りたくなったのかな、と」
「なに言ってんの……」
「わかった、もう何も言わなくていい。さくらに言わせてしまった俺が悪かった。そうなろうッ。さくらがそう思ってくれるなら、俺に拒む理由なんて一切ないから。実は薄々自分でも気が付いていたんだよ、そういう願望があるんだって。いや、寧ろ今は、ごくごく自然なことだと思える。ちょっと待ってて、今すぐにシャワーを浴びてくるから」
ところが、慌ててお風呂へ行こうとする僕のジャージを強く掴み、さくらが呼び止めた。
「いやいや、ちょっと待て。ちょっと落ち着け。朝から何を言っているんだ、耕太は。違う、違うから」
「えッ、違うの……」
「うん、違うよ。全く自然なことに思えないから」
それからさくらが、この部屋へきた経緯をかいつまんで説明してくれたのであるが、それはそれでとても予想外のことだったので、僕は吃驚仰天する。
「けッ……結婚式」
なんとこれから、僕とさくらの結婚式をするというのだ。
いや、違う。文脈が頭のなかで勝手に省略変換されてしまった。正確には、僕が新郎役、さくらは新婦役となり、農協ブライダル事業部が表参道で展示するためのプロモーション映像を撮影するのだという。
本来はプロのモデルさんを起用する予定でいたが、何かの手違いにより、ブッキングを一週後へずらして入れてしまったのだ。チャペルが契約する外国人の神父さんは、本業のほうが忙しくて、来週は国内からいなくなってしまう。
それにやっと気がついた担当者は、昨夜から慌てはじめ、さくらへの出演要請が今朝早くに入った。ついでに、誰でもいいから新郎役を連れてきてくれと言われたらしい。
仕事として絶対に許されない、ひどい凡ミスだ。なんということ。そしてまたしてもさくらを頼るとは――ただただ、ファインプレーであると思う。
ということは、さくらと僕は――
「キッス、するんだよね。キッス」
「あァ、それはしない。チャペルで式の流れを撮影するだけだから、本当のキスまでは要らない。フリだけ、あくまでフリだけだから」
でも僕は、自分よりも適任な人がいるのではないかと、あの爽やかで品位を備えた顔を思い出してしまった。
「俺よりも、風間さんに頼んだほうが見栄えがいいと思うけど」
さくらは首を大きく横に振る。
「それはいくらなんでも無理、腕組むとか恥ずかしいし。あとは風間さん、来月下旬に結婚する予定だから、今日はその準備で忙しいはず。昨日だってやっとできた自由な時間にサーキットへ行ったんだから」
「そう……なの」
「あれ、お父さんから何も聞いてないの。風間さん、これからボクらが撮影するチャペルで結婚式を挙げて、披露宴はドッグ・リゾート・オクノヤマを貸切にしてやるんだって」
「いや、全然知らない……」
それは初耳だった。
しかしもしかすると、聞いていたかも知れないけれど、興味がなかったから聞き流していたのかも知れない。
今朝は寝不足だったこともあるが、なぜだか急に全身から力が抜けて、僕はしばらくその場から動けなかった。
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