長い夜

 でも、なぜドッグ・リゾート・オクノヤマへ行ったのだろうと疑問に思っていたところ、さくらが先まわりで説明してくれた。


「ほら、来月に表参道のアンテナショップで、さくらんぼのイベントをやるでしょ」

「うん、あるね」


 昨年に引き続き、さくらはチェリー大使として活躍する。今年は卒業式で着た着物と袴を着て、店頭に立つことが決まっているそうだ。僕も農協職員として応援に同行する予定だから、またあの姿を見られるのは楽しみでもある。


「――だけどね、村井課長がうっかり忘れていたとかで、観光課がまだ何も企画を準備していなかったんだよ。そうしたら課長がどうしようって、ひどくテンパっちゃってさ……」

「あらら」

「だからボクが思いつきで、表参道や青山界隈の人たちはよく犬を連れて歩いていたから、ドッグ・リゾートへの送客をやってみたらどうかなって言ってみたんだ。そうしたら課長がそれで行こうと言い出して」

「村井課長、堅実そうな見た目なのにそうでもないんだね」

「うん、割と勢いの人。そこで課長が風間さんに相談してみたら、喜んでマッチングしてくれたんだ。いい人だよね、風間さん」


 最後の言葉が引っ掛かったけれど、僕は努めて平静を装う。


「ふぅん……そうなんだ。ウチのブライダルの人達は何をするの」

「そうそう、それ。ボクがワンちゃんたちと一緒にできるリゾートウェディングプランを提案してみたら、みんなが面白いねって。さらに風間さんが実現策を肉付けしてくれて、農協のブライダルとの提携と、相互送客まで話が膨らんじゃった」

「へぇ、すごいね。さくら」

「うーうん、成り行きだよ。なぜか村井課長は得意げだけど」


 確かに、とても理に適っている気がする。

 今や飼い犬は家族の大切な一員であり、一緒に旅行をしたがる人のニーズは無尽蔵だ。だいたい犬好きの周りには、犬好きの知人や親戚がいるもの。結婚式に出席するときはペットホテルに預けて、終わり次第、慌ててとんぼ帰りする人も多い。

 東京からなら犬と一緒に高速道路を使って来ればいいし、仮に一組が決まれば、五十から百人の団体になるだろうか。ドッグ・リゾートでは温泉が湧いていて、犬用のお風呂まである。

 利用客が増えて仕入れが増えるのは、農協にとってもまことにありがたい話――

 いや、違う。

 僕が訊ねたいのはそこではない。

 なぜ、風間さんがさくらの髪に触れたのかだ。さっきの衝撃的な場面が脳裏をよぎり、眩暈すら覚える。

 朝どれ野菜の日替わりランチを美味しく食べた後、不機嫌なままでいる僕に、さくらが覗き込む顔で可愛らしく訊ねてきた。


「本当にどうしたの、午前中に何か嫌なことでもあった」

「…………」

「愚痴でも何でも聞くから、言ってよ」


 本気で心配してくれているさくらに対し、話を蒸し返すのはちょっと情けないような気もしたけれど、言わずにはいられなかった。


「――髪」

「え、何」

「さっき風間さんが、さくらの髪に触っていたのは、何故なのかな……って」

「はァッ?」


 さくらはみるみる呆れ顔に変わり、目頭を指先でつまみ、揉み解してから言った。


「何かと思えば、そこだったんだね。――カメムシだよ」

「え、カメムシ」

「そう。ボクの髪の毛にカメムシがすがっていたから、風間さんが取ってくれたんだよ」

「あァ……なんだ、そうだったんだ。ハハハ、それは仕方ない、かもね。ハハハ」

「そうだよ、ありがとうだよ」


 僕は少し安堵して、再び温かいお茶をすする。

 ところが、さくらが「あッ、そうそう」と何かを思い出して、興奮気味に目を輝かせた。


「次の土曜日にね、風間さんがスポーツランドSUGOへ連れてってくれるって」

「え……」

「風間さんね、Gクラス以外にも赤のNSXを持っていて、ライセンスもあるんだって。サーキットなんて行ったことがないから行ってみたいって言ったら、ちょうどこの週末に予約してあったから、乗せてくれるって」

「サーキット、NSX……」


 NSXといえば、ホンダが誇る最高峰のミッドシップスポーツカー。二千五百万円は下らない代物だ。官能的なグラマラスボディ、背中から甲高く啼くHONDAエンジンの咆哮、初体験のジェットコースター感覚とスタイリッシュかつゴージャスな内装。

 助手席に座った女性は、血潮を昂ぶらせ腰砕けとなるに違いない。そんな特別な車だ。

 危険だ、危険すぎる――と僕の本能が叫ぶ。


「俺も行く」

「無理だよ。NSXは2シーターだし」

「ウチの軽トラだって、2シーターだよッ」

「いやいや、ちょっと待ってよ耕太、そこで張り合っても」

「は……そ、そうだね。何を言っているんだろう、俺……ハハハハ」


 だけど、そうなのかも知れない。

 さくらの特別な容姿には、本来、田舎臭い軽トラよりもNSXみたいな特別な車の助手席のほうが、よく似合うのかも知れない。

 だけどもしも、風間さんがそういう趣味の人だったらどうしようか。僕には勝る要素がひとつもない。


 土曜日の夜。

 一分一秒が重く長く感じられた。

 二人で映っている写真を送られてきたら発狂するに違いなかったし、LINEを送ってさくらの帰宅を確かめる勇気すらない。そこまでしてしまったら重い男、ストーカーになってしまう。だからスマホの電源を切り、自分から遠ざけておくようにした。

 ベッドの上で横になり、目を閉じると、風間さんとさくらの間でこんな会話が始まる。


  ※ ※ ※


風間 『今日は楽しんでくれたかな』

さくら『うん、とっても楽しかったです』

風間 『そうか、それはよかった。――ふう』

さくら『どうしました』

風間 『実はさくらちゃんに良いところを見せようと張り切りすぎちゃって、ちょっと疲れたかも』

さくら『大丈夫ですか』

風間 『うーん、悪いけど途中で少し休みたいな。もしよかったら、このNSXをプレゼントするから付き合って欲しい、朝まで――』

さくら『えッ』


 二百五十キロを超えるスピードでサーキットを周回するうち、さくらは全身の血を前後左右に揺さぶられ、知らず知らず体が火照っていた。彼のドライビングテクニックに身を委ねるうち、その端正なサラブレッドの横顔へ、いつしか厚い信頼を寄せるようにもなっていた。

 風間の提案に、さくらもはじめは驚いた。

 だが次に訪れたのは躊躇い。

 そして、頬を赤らめ、ついに無言でコクリと頷く。シフトレバーの上に置かれた長い指に、小さな右手を重ねて絡めた。

 やがて真紅のNSXは、暗闇のなかでテールランプの軌跡を滑らかに流し、閑静なリゾートホテルへ消えて行くのだった――


 FIN。


  ※ ※ ※


 兎に角、その夜の僕はおかしかった。

 布団を被って眠ることに集中したが、目を閉じていると、さくらの妖艶な姿が瞼の裏に浮かんでは消える。その度、胸の奥底を掻き毟られるような感覚に見舞われ、一人で悶え苦しんだ。

 初めて知る酷い不安。

 結局、朝まで寝付くことができず、長い夜を過ごした。

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