御曹子

 就職から一ヶ月が過ぎた。

 少し安心してしまったのか、ゴールデンウィークはいくら寝ても寝足りず、とにかく眠くてたまらなかった。あとは時々、さくらとどこかへ出かけてみたりして、そうこうしているうち、あっという間に連休があけた。

 日々、少しずつではあるけれど、あたらしい環境と仕事に慣れてきているような気がする。

 村の農家さんからも、だいぶ顔を覚えてもらえた。おおよそほとんどが奥野山高校の卒業生という恵まれた環境ではあるのだけれど、ご祝儀がてら、たくさんの発注を頂けたので職場の先輩から褒められもした。

 さくらは彼女と別れたことについて、「二人とも別な生き物になった」と例えていたが、それを聞いたとき、僕とさくらはどうなのだろうと思った。今でこそ同じ方向の道を歩いているとしても、仕事の内容が違う。いつの間にか置いて行かれたり、離れたりしないよう互いの座標に気をつけなくてはいけない。だから、ここから先こそが大事だと思い、気を引き締めなおす。

 朝から肥料の納品回りをして、お昼に一旦、事務所へもどってきた時のこと。

 僕は、この田舎にひどく不似合いな車を目にした。


「黒のメルセデス、Gクラス」


 あの車の持ち主を知っている。

 風間寛かざまひろし――カザマホールディングスの御曹子だ。

 カザマは地方を中心として、全国に千店舗のホームセンターを展開する。社員が一万人もいて、年商三千億円の東証一部上場であり、地元の優良企業。ちなみにカザマは、肥料を農協よりも安く農家さんへ提供していたりして、競合となることもある。

 かの風間一族は、代々続く豪農で近隣名士、江戸時代には大名よりもお金を持っていた歴史がある。「風間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに」なんて言葉が残っているほど。

 風間さんは東京生まれ東京育ち、あの皇華院大学出身である。皇華院大学とは、旧華族や歴史ある名士など、血筋と地位がしっかりした人でなければ、どんなに勉強ができても入学できない雲上人の大学として有名だ。大学卒業後は、修行がてら六年間限定で最上銀行へ預けられ、今は僕の父がいる支店で勤めている。

 しかも単なる御曹子ではない。身長は百八十ちょっとあり、歌舞伎役者のような顔立ちで爽やか。大学時代はファッション雑誌の読者モデルもやっていたらしい。

 彼は、高級そうな細身の仕立てスーツをセンスよく着こなし、颯爽とした身のこなしで降りて来ると、右側のドアを次々と開けた。なかなかできることではない。いかにも自然に、紳士の振る舞いだと思う。

 中から降りてきたのは、村井課長と、あとは農協のブライダル事業部長、そして――さくらだった。

 ところが、目に飛び込んできた光景に、僕は思わず身を乗りだして声をあげてしまう。


「あッ……」


 な、なんと。風間さんは、さくらが反応する間も与えず、髪に触れて撫でたのだ。この僕でさえ、面と向き合ってまだ触れたことがなかったのに、なんたること。

 なのにさくらは、嫌がるような素振りを一つも見せず、寧ろどこか触られたことが嬉しそうにも見える。照れたようにして、風間さんの顔を上目づかいに見てから、ペコリと頭を下げていた。僕には見せたことが無いような顔。

 なんだ、今何がおこった。

 風間さんは白い歯を輝かせると、再び躍動感のある動きでみんなへ挨拶をする。野太い上品なエンジン音を残し、長い指が生えた手を窓から振りつつ去っていった。

 それを見送っていたさくらは、やっと僕に気が付いた。

 小さく手を振って近寄ってくる。


「外回り終わったんだ」

「うん、また午後になったら出るけど」

「お昼は食べた」

「いや、まだ」

「じゃァ、今日はお弁当を持ってこなかったから、『奥のやま』へ一緒にランチを食べに行こうよ」

「う、うん……」


 それから二人で軽トラに乗りこみ、『奥のやま』へ向かったのであるが、僕はとうとう道中でさくらと目を合わせることができず、無口なままでいた。

 とても苛苛する。別に髪を触られたぐらいどうということもないのに、下らないことだとわかっているけれど、なぜだか止まらない。

 席についてから、さくらが小首を傾げる。


「どうしたの。具合でも悪い。さっきから無口だけど」

「ん、大丈夫だよ」

「ふぅん、そっか」


 ひどくぞんざいな口調で返事をしてしまった。でも、止まらない。

 さくらが原因にちっとも気付いてくれないので、僕は少し腹立たしくなり、視線を逸らしたまま吐き捨てるように問いかけた。


「さっき、風間さん見たけど」

「あァ、仕事の打ち合わせだよ。『ドッグ・リゾート・オクノヤマ』へ、みんなで行ってきたところ。話がね、すごく盛り上がったんだァ」

「ドッグ・リゾート……」


 ドッグ・リゾート・オクノヤマといえば、昨年、村の中にできた富裕層向けの犬と泊まれるホテルだ。高所から見える山並みと村の景色が圧巻で、天空のグリーン・ツーリズム・リゾートとも呼ばれる。

 東京の大手デベロッパーによる農村の一大開発プロジェクトで、日本列島の自然が美しい地域に、同じコンセプトのホテルがいくつかある。

 それに風間さんが食い込んだ。

 本来ならば最上銀行のような地方銀行が絶対に取れないはずの大口融資を、華麗なる人脈を活かして勝ち取ったと父が言っていた。一番の難関となる土地の買収についても、風間さんが熱心に地主さんのところへ奔走し、皆が納得するかたちで早期実現にこぎつけた。周りが「できない、無理だ」と風間さんを止めた前段があったので、奇跡だと思ったという。

 農協にもメリットがあった。ドッグ・リゾートグループは安定した大口の納品先となり、近隣の若者たちの雇用をも創出している。関係者一同がウィンウィンとなる大成功プロジェクトだった。

 そう。

 あの風間さんという人は、何度か話したこともあるけれど、どこを切ってみても非の打ち所がないのだ。

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