志望動機
はじめての土日休みになった。
さくらは入庁前に村長からホームページ刷新担当を任命されていたので、二月ぐらいから週末は遊びにでることなく、ネットマーケティングについて勉強している。それにさくらの彼女は、神奈川の大学へ進学して遠距離恋愛に突入したから、寂しさがまぎれて丁度よいらしい。なので邪魔はできない。
僕はといえば、昨年の秋に就職が決まって以来、週末は農業や農協についての本を濫読している。まだまだ、僕が知らないことは多い。
実のところ、早くから就職の進路を選択した僕には、もうひとつの選択肢があった。最上銀行という地方銀行で、父はそこで支店長をしている。コネを使えるからどうだと勧められたが、父の反対を押し切って農協に決めた。たいていの人ならば最上銀行を選ぶところ、進路指導の先生にも不思議がられたっけ。
理由はいくつかある。一割は村役場へ就職するさくら――いや、本当は三割ぐらいか、もっとかも知れないけれど、決してそればかりでもなく、農協なら外への転勤がないとか、高校時代に農業課程だったこともある。ちなみにさくらは普通課程。二人だけなのに可笑しな話だったけれど。
ところで、世の人は、どれくらい農協や日本の農業について意識をもっているだろうか。
都会に暮らす人は『お百姓さんが手間と時間をかけてつくってくれている――』なんて、憐れみにも似た上から目線で云うことがあるけれど、僕から見れば無関心より少しはマシとしても、五十歩百歩かなと思う。
違う。
農業は、GDPの一割を占める、日本に欠かせない産業の一つだ。
ながらく続く東京への一極集中の流れがあり、過疎化により廃れ行く地方と農村――みたいな構図や先入観をメディアが置きたがるせいだろう。前時代の古きよき日本の姿が損なわれるとか感傷的に受け止められがちに見える。しかし農業は、商業や工業、ITと同じように仕事であって、従事者にとってみればお金が出入りする生業に過ぎない。
現代、後継者不足がアキレス腱になっているが、それは工業商業の中小企業に於いても同じこと。どの産業も各地域にある人口動態の基盤に乗っているので、顕在化するタイミングが違っているだけだ。
対策として、IoTやドローン、GPS技術を駆使したスマート農業というものが目下推進されている。そう、今や農業とは、マーケティングはもちろんのこと、SCM、IT、生物学、社会学、経営学などのナレッジを総動員する先進的な産業なのだ。だから『お百姓さんが手間と時間をかけて――』なんて悠長な世界ではない。
よく一般に悲愴的な論調で語られるけれど、日本の農業が廃れるほどボロボロかといえば、内実、そこまででもない。三十年前とくらべてみれば、野菜の生産高は一・六倍、畜産は一・三倍になっている。一方で国内消費向けだけでなく、主に鶏卵やいも、果物、牛肉の輸出がメキメキと伸びている。中国を筆頭にアジア経済の成長はめざましく、生活水準が上昇して食への関心も高まっている。日本の農業をとりまく環境は、ダイナミズムをもって刻一刻と変化しているのだ。
国内食料自給率という言葉をどこかで聞いたことがあると思う。
国民の消費カロリーあたり、どれくらいを国内で自給自足できているかという指標のことだけど、日本は四割を切っている。大変だ、自給率を高めないと困ったことになる――とも騒がれるが、それは内訳を見た人が少ないゆえだろう。
その自給率低下の根本は、日本人の食生活が大きく変化したことにある。一口に言えば、贅沢になったのだ。一人が一日あたりに摂取するカロリーを五十年ほど前と比べてみると、二千四百五十キロカロリー前後で大差がない。でも、中身が大きく変わった。
五十年前は、カロリーの四十五%ほどを米で摂っていたが、現代は米が二十%ちょっとになった。これについて米農家さんは、「みんなパンを食べるようになったからだ」というが、実はそうでもなく、小麦の消費カロリーは微増に留まる。
ではなぜか。それは米が減ったぶん、目だって増えたのは油脂と畜産だ。特に畜産は、百五十七から四百二十五キロカロリーへ三倍近くなった。だから日本人は、昔よりも目だって体が大きくなり、体型が変わったのかも知れない。
よく「輸入牛肉に日本の畜産が潰される」と云う人もある。ところが消費カロリーベースで見れば、和牛の消費量は五十年前からほぼ一定。翻って日本人が牛肉を食べるから輸入が増え、輸入が増えたからみんな食べられるようになったと解釈することもできる。
キャパシティを増やせばもっと成長余地があるのかも知れないが、最近は田舎に暮らす人でさえ、家畜の臭いがするとクレームを入れるのだから困ったもの。漁業組合の人も似たようなことを言っていたから、本当にこの国に暮らす人はわがままというか、後ろを向いたままどこへ行くつもりなのかと思ってしまう。
あとは他にも、日本人が口にする食料の品目が多様になり、さらに米の消費カロリーが落ちた。これは今さら僕が説明するまでもなく、スーパーやレストランへ行けば、一目瞭然なのかなとも。
現代の人にとって高度成長期は過去のものとなったが、長らく生活が豊かになって、すっかり忘れてしまっている。江戸時代まで日本人のおよそ九割が農民であり、明治維新後、資源が少なかった日本は新たな産業がなかなか育たず、庶民の三割以上が農業に従事して、米作の小作人たちの生活がひどく貧しかった時代があったことを。
奥野山村も同様だったと聞く。それでも奥野山農学校の先輩たちが頑張ったおかげで、農業を基幹産業に押しあげた。
近年誘致した大きな自動車工場なんかもあるけれど、いつ何時、企業の都合で手を引くとも限らない。現にポスト高度成長期の頃、工場を海外へシフトする動きが起こったと聞く。これがさらに東京への一極集中を加速させた。活躍できる仕事の場がなければ、みんな生業をもとめて動いてしまうのは当然のこと。
だからやはり、村の中心産業は、あくまで農業に足場があるべきだと僕は思う。
つまり農業の将来を考えることは、奥野山村の未来を想うことであり、そこに関わることは村への貢献につながる。さらには日本を考えることにもなる――という思いから、僕は農家を幅広くフォローアップする仕事、農協を志望した。
農協が何かといえば、農家が組合員となる協同組織だ。
その目的は、『農業者の協同組織の発達を促進することにより、農業生産力の増進及び農業者の経済的社会的地位の向上を図り、もって国民経済の発展に寄与すること』と農協法に仰々しく大義が述べられている。
農協には二つのタイプがある。総合的にサービスを提供する総合農協型と、特定の作物に限定した専門農協型に分類される。僕が就職した奥野山農協は、前者の総合農協だ。
さらに総合農協の事業には、四つの柱がある。
まずは農業の技術向上を目指す営農指導事業。
次に貯金の受け入れと融資をする信用事業。競合は父が勤める銀行や信用金庫だ。
三つ目として、生命保険や損害保険を提供する共済事業。競合は保険会社となる。
そしてあとは経済事業。農産物の仕入れと販売、肥料などの卸、共同大型施設の運営、医療施設、介護福祉施設、葬儀場、店舗などを運営する。これには事業として可能性があるものは何でも入ってくるのであるが、奥野山農協では、ブライダル事業まで展開している。村で収穫した新鮮フルーツをふんだんに使ったウエディングケーキと、旬菜料理は評判だ。
とはいえ、農家の大多数であった米作農家が著しく減った昨今、農協の存在意義が薄れていることは否めない。かく云う僕の家も、祖父の代まで米作専業農家だったが、父は銀行へ勤め兼業農家となった。今は自分たちが食べる分だけを細々とやっている程度。
本来農協のあるべき姿として、営農指導事業や経済事業で存在意義を強く発揮すべきところ、奥野山農協に限ったことでもなく、全国どこの農協も信用事業と共済事業が圧倒的な収益源となっている。営農指導事業と経済事業で発生する損失を補っているような状況だ。営農指導といっても、すでに各農家さんや農業法人が保有するノウハウやデータの方が先行していて、むしろ農協が指導される立場になることもしばしばだったりする。
よって、農協法の目的に直結するはずの営農指導事業と経済事業だけでは、農協が存立できないという悲しい現実がある。
その結果として、もっと困ったことがじわじわと進行している。
農協法に於いて、農業従事者は議決権をもつ正組合員となり、非農業従事者で議決権を持たない域内利用者を非組合員と呼ぶ。ところが最近、都市近郊型の農協では、正組合員と非組合員の数が逆転する状態にまで至っている。
金融の自由化が顕著になった頃、域内人口に不釣合いなノルマを契約社員さんたちが背負い、朝から晩まで信用や共済の契約を獲得するため走り回り、心身の調子を崩す人が頻繁に出たと大人同士の噂で聞いた。
さておき、屹度これから、ますます顕在化してゆく人口動態の変化とともに、農協の淘汰がはじまってゆくに違いないが、これも市場の変化があってのことだから抗うことは難しい。高度成長期の成功体験を忘れ、順応し、リソースを最大限有効に活用して次のあるべき姿を描いて行くしか道はない――というリポートを、高三の夏休みの課題として提出した。
これらがそのまま、農協への志望動機になった感じ。
幸いにして、果物に力点を置く奥野山農協は、先々何とかなりそう。
果物栽培は長年蓄積したノウハウと設備投資がモノを言うし、新規参入はなかなか容易でもない。米とは違い、肉を食べても果実が食べたくなるためか、需要は一定に横ばいだ。
だからこそ競争は激しく、若い僕とさくらがこれから頑張るべきところは多い。楽しみもある。
さくらが男の娘としてチェリー大使をやっていたり、SNSでフォロワー集めをしているのも、それなりに故郷を盛り上げて行こうとする志が根っこにある。僕とさくらは、こうした夢で結ばれた同志だ。
なればこそ、なお一層、僕は奥野山村の歴史と未来をつなぐさくらのあの姿を、美しくて可愛らしいなと思う。
実際、中途半端な女の子を寄せ集めた集団アイドルなど、一網打尽にしうる恵まれた容姿をしているというのは、違いないのだけれど。
僕はまだ、さくらよりも麗しい女の子を前にしたことがない。
固い話はここまでにしておく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます