双魂春秋

司田由楽

双魂春秋

 むかしむかし、男と女が旅をしていました。男は自分の名前も、何をしていたのかも知らず、女に連れ出される前のことを、長いこと思い出すことができないでいました。そのうえ片目を怪我していて、とても背が大きかったので、どこにいっても怖がられていました。女は背が小さく、笑顔のかわいらしい娘で、無口な男を連れていろんな場所を訪れたのでした。男は虹、女は可という名前を使っていました。

 雪解けの春、山中で虹が運よく見つけた洞窟で野宿の支度をし、火を焚いていると可が不思議な匂いをさせて戻ってきました。煙たい、焦げたようなにおいに虹は鼻をひくつかせ、そっと顔をしかめます。

「またそれか。妙なにおいだ」

「必要なことだよ、我慢して」

 可は疲れたように虹の大きな背中にもたれ、手に持った紙束を火の中に投げ入れます。

「貴重品だろう」

「だからこそ、残らないようにするの」

 このやり取りは既に何度も行われていて、常に可が譲らなかったのでした。虹は事情が分からないなりに、女の漂わせる匂いに苦言を呈し、貴重な紙を燃やす事を咎めたのでした。しかし、言い争いをしたところで燃やした紙は元には戻りません。目を合わせようともしない可に、虹は諦めて違う話題を振りました。

「明日はどこへ?」

「山を越える。二日かかるから、麓の村によって先に買い物」

 言葉少なにそれだけ言って、可は目を閉じました。虹は口調を和らげて、彼女に言い聞かせます。

「なら、新しい帯でも買おう。古くなっていただろう」

「……うん」

 虹は焚火を消して、可の隣に横になりました。怪我をしていない方の目を閉じたのを確認し、可も眠ります。


 村での買い物を終え、春の日差しを浴びながら、二人は山道を進みます。昨日の不機嫌もどこへやら、可はどこか浮かれた様子で歩いています。

「風が気持ちいいね」

「そうだな。暖かくなって、過ごしやすくなった」

 しみじみと言う虹に、可は苦笑します。

「冬の間は寒かったものね」

「ああ。南方にいたとは言え、外に出ることもままならなかった。可は大丈夫だったのか?」

「大変だったよ。でも収穫はあったかな」

 そういって微笑む可に虹は嬉しそうに頷いて、一歩先を行き可の手を引きます。二人が行くのは獣道、時折日陰に雪が残っていて、虹は寒そうに身を縮めました。

「道を変える?」

「このくらいなら平気だ」

 吐く息は白く、声は囁くようでした。可は頷いて、草木をかき分けるようにして進みます。二人は休憩を挟みながら、少しずつ進んでいきました。

 動物とすれ違いながら進むと、開けた場所に出ました。肌を切るように冷たかった風が、いくらか春の陽気を含んで柔らかくなったように思われて、可は息を深く吸いました。

「嬉しそうだな」

「そう見える?」

 虹のつぶやきに、可は不思議そうにしています。虹はじっと可を見つめて考え込み、悩んだ末に答えました。

「勘違い、かもしれない」

 神妙な言葉に可は声を上げて笑います。「勘違いじゃないよ」と言って、照れくさそうに視線を明後日の方にやってしまいました。

「一人だとね、どうしてもつまらないから」

 地平線を一望する、開けた場所に立って、二人はしばし無言でいました。可にとっては長く、虹にとっては短い互いの不在は、いつも旅のはじめに不可思議な距離ができるようで、どれだけ長く過ごしても、二人は未だにその隙間の上手な埋め方を、理解できないような気がしてしまうのでした。

「冬までまたよろしくね」

 そう言ってはにかむ可が、虹の一つだけの瞳に映っていました。

「ああ。こちらこそ」

 そう言って頷いた虹も、唇がわずかにほころんで、可は満足そうにうなずいたのでした。


「暑いね、参ったな」

 額の汗を拭い、可はため息をつきました。虹も弱音こそ吐かないものの、暑さがその身に堪えるようで、頭上で輝く太陽に恨みがましい視線を向けています。

「この後は、どうする」

「もっと先まで行くつもりだったけど……今日はやめておこう。あそこの木陰で休んで、次の町で泊まろう」

 二人が腰を下ろした桑の木の陰は、厳しい日差しが遮られており、二人はほっと息をつきました。

「虹、見て」

「ん……これは」

 二人が覗きこむうろの中には土がつまっており、そこからまた別の木が生えていました。

「こんなところに珍しい。何だろう」

「スモモじゃないかな。そろそろ収穫できるよ」

 可はほとんど空になっていた水筒を逆さにして振り、わずかな水を分けてやりました。

「しかし、こんな狭いところに生えてしまって大丈夫なのか?」

「結構立派に育ってるように見えるけどね。でもこれ以上は難しいのかも」

 そう遠くない畑で、風が青々とした稲を揺らすのを見つめ、静かに言いました。

「それもまた巡りあわせと言うものだよ」

 それを聞いた虹は太陽と自分の水筒を見比べて、少し水をたらしてやりました。

「これも巡りあわせだ」

「そうだね」

 可が嬉しそうに笑うので、虹も嬉しそうに目を細め、木の幹に背中を預けたのでした。


 きつい日差しが鳴りを潜めて、夜の風が冷たくなってきたころ。山を越える途中であった二人は、生き物の気配に立ち止まり、息をひそめてあたりを見回しました。虹が先に気づいて可に目配せします。

「可。そこだ」

「他に何かいる?」

「いない。敵意はなさそうだが……」

 虹が睨んだその先を見据え、可が一歩踏み出しました。二人が注意深く見つめる先で、茂みを割って現れたのは……。

「犬の子か」

「親はどうしたんだろうね」

 黒い毛の、小さな痩せた犬でした。可が子犬を抱き上げると、虹は落ち着かない様子であたりを見回しました。可はそんな虹をちらと見て、子犬を抱えなおします。

「虹、犬苦手だよね」

「ああ。そいつはどうにか大丈夫だが、親が来たらまずいかもしれない」

 虹はできる限り子犬の方を見ようとしないようにしています。可は子犬と見つめあいながら何事か考えているようでしたが、ふと顔を上げて虹に言いました。

「近くに親がいないか見てきてくれる? 遠目に見つけてくれればいいから」

 何でもないことのように言われ、虹は目を丸くします。困ったように可の抱える子犬を見て、落ち着きなくあたりを見回し、逃げ場がないと踏んだのかがくりと肩を落としました。

「……わかった。見つけたら、すぐ知らせる」

 苦虫をかみつぶしたような顔で虹は言い、気が向かない様子で去っていきました。それを見送った可は子犬を地面におろし、労わるように囁きます。

「大変だったね。休ませてあげられなくて申し訳ないけど、案内してくれるかな」

 子犬はよろよろと茂みを抜け、可をある場所へと導きました。崖の下、草葉の陰を進み、肉の腐る臭いがしてくるのを、可は分かっていたといわんばかりの涼しい顔でついていきます。

 そこに転がっていたのは、腐りかけた一匹の犬の亡骸でした。脚に膿んだ傷がありました。傷が治らず、動けなくなって、そのまま飢えて死んだのでしょう。鳥か何かについばまれた腹に、色の違う毛が散らばっています。

 可はふうと息を吐いて、親犬の顔を舐める子犬を引き寄せました。

「どうか分かってね。私にできることは多くない」

 髪をきつく結って、可は祈るように目を伏せました。

「私の都合でごめんね。虹には、あまり見せたくないから」

 そう言って、可は不思議なほど早く深い穴を掘り、丁寧に亡骸を横たえます。穴の中に滑り込もうとする子犬をいちいち戻してやりながら、土をかけて埋めてしまいます。汗を拭い、湖で汚れを落として子犬と共にもといた場所へと戻ります。眠ってしまった子犬を撫でながら、可は虹を待ちました。

 遠くまで探し回ったのか、虹が戻ってきたのはそれからかなり時間が経ってからのことでした。

「ここら一帯は探したが、見つからなかった」

「そっか。麓に降りて、育ててくれそうな人を探してみる?」

「それがいいだろう」

 そう言って背を向けてしまうかと思いきや、屈みこんで可の抱える子犬に顔を近づけました。目を覚ました子犬が顔を上げたのにびくりとして、腰が引けそうになるのをどうにかこらえたようでした。

「見つけてやれず、すまなかった」

 子犬は二つの目で虹を見つめました。可はそっと目をそらして、虹の髪についた葉を取り、顔についた土を拭ってやりました。

「行こうか」

「ああ」

 麓の村で三日ほど滞在し、二人は子犬を引き取ってくれるという家族を見つけました。血色のよさそうな子供が、きらきらとした目で子犬を見つめていたことに、二人は肩の荷が下りたような気持ちになったのでした。

 次の町を目指す道すがら、可は虹に聞きました。

「犬、苦手なんじゃなかったっけ」

「苦手だ。君には悪いが、連れて行こうといわれなくて助かった」

 普段はすっと伸びている背中が少し丸まっているのが、虹の疲労を示していました。

「そう思うのを責めるつもりはないけれど……思っていたより避けなかったから」

 歩みを止めることなく可は言いました。

「頼るものもなく……拠り所のない命は、悲しい。それだけはどうしてかわかるんだ」

 そよ風にさえ吹き消されてしまいそうな、弱々しい声でした。可は黙って先を促します。

「冷たくするのは嫌だった。ちゃんとできていたかは、自信がないが」

「それは、あなたがそうだったから?」

「おかしなことを言う。俺には君がいてくれるのに」

 くすりと笑う虹に答えず、可は黙って見つめます。真剣な瞳に虹は少し困ったように黙り込んで、ぽつぽつと答えました。

「……そう、だな。君と旅をする前は、そうだったのかもしれない」

 そう言いながら、まるで腑に落ちたような、どこかすっとした表情をしている虹から、可はすいと視線をそらしました。

「憶えてはいないんだが、そんな気がする」

「そう」

 可は一つ頷いて、それきり黙ってしまいました。虹もしばらくは無言でその後についていったのですが、ふと思いついたように、小さな背中に問いを投げかけました。

「子犬が恋しいのか」

「そう見える?」

「……分からない」

 その答えに、可は少し安堵したようでした。可は一度立ち止まり、虹の腕を掴まえて真摯な様子で言いました。

「そこまで私のことを知ろうとする必要なんてない。どうか、私の全てを暴こうとしないで」

 切実な声での懇願に、虹は言葉を詰まらせました。腕を握る、日に焼けた小さな手が震えているように思えて、理由も聞かず頷くことしかできませんでした。

「分かった」

「ありがとう」

 ひらりと小さな手が離れて、まるで何もなかったみたいに歩き出してしまったのを、虹は呆然と見ていました。


 二人はまた別の町に来ていました。虹を冬の間預かってくれるという可の知り合いが、近くに住んでいるのです。日に日にどこか不満げな、落ち着きのない様子になっていく可に、虹は気が付いたようでした。

「どうかしたか?」

「いや、別に……」

 何でもない、と言おうとした可でしたが、考え直したのかため息交じりにこう答えました。

「何も起きないで歩いてばかりだと、ちょっと退屈だなって」

 首筋にかかった髪をもてあそびながら、可は物憂げな顔をしています。

「やっぱり犬が恋しいのか」

「そうだったのかも。言っても仕方がないけどね。虹は退屈じゃない?」

 可の問いに、虹は考え込む様子も見せず答えます。

「退屈も構わない。俺たちの旅に事件は必要ない。」

 糸のように細い目が、可を見下ろします。

「可はそう思っていないのか」

「……ううん。確かに、必要ないね」

 肩の力を抜いて、可はぽつりとつぶやきました。

「もうたくさんだよ、物騒なことは」

 本当に小さな呟きでした。虹はその言葉に小さく首を傾げて……でも結局、何も言わなかったのでした。可はその日、虹だけを宿に泊めて、自分はふらりとどこかへ行ってしまいました。冷え込む夜は、虹は身動きすることも億劫になってしまうので、寒さがほどけるまでただじっと、可が戻るのを待っているのでした。


 日ごとに暗くなるのが早くなり、風は肌を刺すように冷え、草木は色を失っていきました。冬が来たのです。空気は冷えて、虹はよく眠るようになりました。ひやりと冷たい瞼を閉じて、長い体を折りたたむようにして眠るその姿は、もう二度と目覚めることはないのではないかと思うほど静かでした。

 可は虹を知り合いの家に預け、自分はあちこちを旅していました。とある記録をこの大地から無くすための旅でした。可は自身の目的を決して虹に語ることはありません。けれども一つだけの瞳が、自分がしていることを全て知っているような気がしていました。

 そうしてまた、一つの記録に火をつけて、虹を預けていた家に向かいました。

「諦めることにしたの」

 燃えた紙の匂いを漂わせ、可が虹の眠る部屋へと入っていきます。目を覚ました虹が、首をもたげて答えようとしますが、寝起きのためか声が出ません。起き上がれない虹の横に、可は腰を下ろしました。

「誰も彼もが忘れても、誰か何かが覚えている。口から口へ、目から目へ。人の流れはどこまでも遠く、記憶が残るのを邪魔することなどもうできはしない。形にあるものをどれだけなくしても、いつか誰かが……」

 そう言って言葉を切る可。薄く目を開けて、虹は何かを話そうとします。冷えた指先に息を吐きかけ、可は虹の体温を奪ってしまわないように手を温めました。

「本当は、忘れてなんかない。あなたがあなたのしたことを、私があなたにしたことを、憶えていない、はずがない」

 長さの変わらぬ髪が、虹の頬を滑ります。眠りに抗う指先が、少女に触れようとして空を掻き、はたりと布団に落ちました。可は服の下にある傷を確かめるように、冷えた背中をさすります。

「子供を食べる大きな口は、今はもうないけれど。鏡の瞳は写した景色を憶えている。硬い鱗が、しなやかな体が、私がつけた傷を憶えている」

 虹が朦朧と頷くのを、可は微笑んで見つめていました。悲しいような、嬉しいような、複雑な色の瞳で見つめていました。

「知らないふりして旅をすればいい。人食い蛇も、それを退治した勇敢な少女ももういない。神様のいなくなるこの大地で、ずっと二人で旅をしよう」

 歌うようにかつての少女は言いました。むかしむかし、旅をする前、一人と一匹だったころ。一匹は一人の前にも娘を九人も食べており。一人は一匹を殺す以外の道がなかったのです。それなのに、気まぐれに与えられた違う道を進むことになったのは、本当に奇妙なことでした。

 その奇妙な道を、いつまでもどこまでも進むことを決めたのが、このふたつのたましいなのでした。

 虹が何かささやくのを見て取り、可はその口元に耳を寄せました。虹は唇に笑みをたたえて、その言葉を口にします。

「また……春に」

 鏡の瞳がゆっくりと閉じられました。一足早く虹の季節は終わり、冬の間に可は一人で旅をします。虹が目を覚ますのを待ちながら。

「ええ、春に」

 そうしてそれらの一年は、このようにゆっくりゆっくり過ぎていくのです。


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双魂春秋 司田由楽 @shidaraku

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