三つのセクションによる組曲・Ⅰ(第三巻収録)

 陽が落ちても、東京の街は休まない。夜になれば、また別の顔となって動き出す。

 時刻は午後七時。ちょうど、昼の街と夜の街がともに動いている時間だ。仕事を終え帰路に就く人間と、夜の街で活動を始めようとする人間が、東京中にひしめく。

それでも、一般人が寄りつけないような高級街は別だ。等しく夜が訪れる東京にあって、銀座の夜は他とは一線を画していた。

 高級商業地である銀座は、生半可な庶民が寄り付けない、極めて多額の金と超俗的な接待が飛び交う場所だ。それだけに警備も固く、過激派の政治団体やギャングも鳴りを潜めていた。彼らができる抵抗はせいぜい、道行く人間の目を汚さない程度に政治色を薄めたプロパガンダ広告を張り付けるくらいしかない。

 「あなたの力で、すこぶる美しいダイトーアにしよう」「まったく強い国づくりは目の前だ」「動けば何かしらできる」「幸せですか」そんな寒々しい美辞麗句が、かえって銀座を行き来する人間の有閑ぶりを際立たせている。

 この街は、資産家や地位の高い人間が湯水のように金を使うことでのみ、立ち入りと歓楽を許されている。ここもまた、ダイトーアを代表する一種の退廃的都市だ。

 その中で銀座の片隅には、近代化を行わずに明治期の街並みを模した一角がある。灯籠やガス燈で照らされた街道はアスファルトの敷かれていない、長年踏み固められた土の道だ。立ち並ぶ料亭・呉服屋・造り酒屋は、いずれも古い木造建てである。財界や社交界の要人御用達の店舗のみが建つ、世俗を離れた場所だ。

 そこの最奥にある、精神修養型の寿司店「メメント・モリ」。銀座ひいては日本屈指の最高級店舗の一つだ。羅漢像が建ち並ぶ店内は、貸切にされている。畳敷きの座敷でテーブルを挟んで向かい合うのは、中立派政治家ミキ・ヒョーエと、報道業界を統べる大手新聞社の重役だ。

「ご足労いただき申し訳ない。ウチマルさん」

 ミキは年を重ねた低い声で礼を言い、頭を下げる。すると、重役のウチマルはすぐさま、それよりも深く低頭した。

「いえいえ、そんな……。ミキ先生直々のお呼びであれば、万難を排して伺わせていただきますとも」

「この店にお呼びしたのも、少しでもウチマルさんとの繋がりを深めたいからこそではあるが……。私のエゴであれば、お許しを」

「まさかッ。これほどのお店、一度入るだけでも自慢ができるというものです」

 報道業界では重鎮のウチマルでさえ、初めてこの店に立ち入る。国会議員の老翁ミキの招待だからこそだった。一つの業界のみならず国を動かすほどの人間でなければ、席を押さえられない。それほど格調が高いだけに、二人はかしこまった和装で席についている。分厚い座布団に刺繍された店の銘と如来を象った家紋が、ウチマルにこの店を強烈に印象付けた。

 個室の外、伽羅きゃらを焚きしめたカウンターでは、作務衣を着た従業員たちが粛々と作業にあたっている。その中央では、頭を剃り上げて虹色の袈裟けさを羽織った老店主が、静かに魚を捌く。日本随一の技術を持つ店主の精神性と宗教観は、これまでダイトーアの政治家たちに多くの天恵を与えてきた。ミキの接待のため、店主は三日間の参禅を済ませたばかりだった。

「早速ですまないが、お伝えしていた要件は、ご検討いただけたかな」

「ええ。先生からのお手紙、しかと拝見いたしました」

「報道関係者に顔の利くウチマルさんだからこその頼み事です。なにとぞ、お取り計らい願いたい」

「わかりました。明日にでも私から、各新聞社に示しておきましょう……」

 ミキもウチマルも、本題を口にしないまま話を進めていく。

要人たちの会合では、常に情報の漏洩に気を配る必要がある。店の人間にさえ話を聞かれないように、内容を言葉で出さないようにしていた。要件は私信で伝え、会合では互いの意思を確認するのみだ。

 その代わり、ウチマルはミキから預かった手紙をテーブルの上に出す。要人御用達の店が貸切ともなれば、監視カメラを仕掛けられる恐れはない。この店は、少なくとも人払いは完璧に行われていた。

ミキとウチマルは無言のまま、改めて手紙の文面を確認する。

 ――近日、東京で不良集団が政治団体を襲撃する事件が多数発生するが、各新聞社に一切の報道を控えさせてほしい――。そういった内容が、ミキの自筆により記されていた。

 そしてミキは、横に置いていたアタッシュケースをウチマルに差し出した。ウチマルには、その中身が見ずともわかる。――現金だ。これを期待していたために、彼はミキの突然の頼みにも応じたのだ。

 小さい声で、ウチマルは訊ねる。

「この話、放送関係の人間にはしておられますか」

「これから、すぐにでも……」

 そのやり取りだけで、ウチマルは了解した。ミキは訳あって、これから起こる事件に対して緘口令を敷きたいらしい。とはいえ、一つ不安な点があった。

「ただ、先生。私の名で周知させるとしても、報道する人間も色々です。指示に従わず、流してはいけない情報こそ流したくなる輩もいるでしょう。どうするべきか、ご意見をお聞かせください」

「ウン。実際、そうした問題は生じるでしょうな……」

 地位の高い人間に、全員が従うとは限らない。大人数を束ねるウチマルも、それが気がかりだった。ミキは少しの間、考える様子でいる。

 会話が途切れたところを見計らい、カウンターから従業員が一人、湯呑と鉄瓶を載せた盆を運んできた。短い経を唱えながら、小股でゆっくりと近づいてくる。禅宗の経行きんひんにならった、接待と従業員の教育を兼ねるこの店独特のしきたりである。

 盆を持ったまま片膝をついた従業員に向かい、ミキは静かに言い放つ。

只管打座しかんたざいえども経行を行うこと。この意如何」

 突如としてミキが言った言葉の意味を、ウチマルは理解できなかった。しかし従業員は、一言答える。

「打座、ただ座すにあらず。経行、これ打座なり」

尊答そんとう謝したてまつる」

 ミキが深く礼をすると、従業員は湯呑を彼の前へ置き、金箔の入った漢方茶を注いだ。そして従業員は、続いてウチマルの方を向く。

 このやり取りが何を意味するのか、ウチマルは把握できない。まごついていると、カウンターにいた別の従業員が突如、警策きょうさくを手にやってくる。わけがわからないうちに、ウチマルは警策で肩をしたたかに叩かれてしまった。

 この不条理に、ウチマルはもんどりうつ。するとミキは、こっそりとウチマルに小さな紙きれを手渡した。

 紙切れには、「このように言いなさい」という指示とともに、呪文のような文章が書かれている。ウチマルはなすがままに、それを読み上げた。

「……慧能禅師えのうぜんしに曰く、本来無一物ほんらいむいちもつ。何をもってこのじきを受かん……」

「飯に逢うては飯を喫せんが為に、食を受くべし」

 従業員の言葉を受け、ウチマルはまた文章を読む。

「尊答謝し奉る……」

 そしてようやくウチマルの湯呑に茶が注がれると、従業員はカウンターへ戻っていった。何が起こったのか、ウチマルは訊かずにいられない。

「先生、今のは一体……」

「ここは精神修養型の店ですからな。茶をもらう前に、問答を交わすのです。まあ、形式だけですので、我々は何でもいいから問いかければいいだけです。もしもに備えて、ウチマルさんの問答も用意して正解でしたよ。ハハハ……」

 湯呑で手を温めながら、ミキが笑う。この店は従業員同様、客にも高い精神的素養が求められる。従業員と問答を交わせない客は茶すらもらえず、警策を与えられてしまうのだ。

 だが当のウチマルはそうと知らず、この場で何が行われたのか理解できないでいる。彼が察したのは、ミキがこの店の難解なシステムにも精通しているということと、ウチマルがそれに不慣れだった場合を見据えていたことだけだった。

 頭の混乱を振り切り、ウチマルは話を戻す。

「それで先生。指示に従わない人間を、どのように扱うべきか……」

「ウン。それなんだが、あなたに一人紹介しておこうと思ってだな。……入ってくれ」

 ミキが呼ぶと、ふすまを開けて男が入ってくる。若々しく、胸板も厚い精悍な外見。ダイトーア・東京で暗躍する政治団体「遠海塾」の主魁しゅかい、オーボシだった。

 オーボシはまるで気流のような、何か猛々しいものを伴って歩み寄る。ウチマルには彼が、力の有り余る巨人のように思えた。ミキはミキで、面長で老齢の割に背が高い、まるで古城めいた雰囲気の男だ。

 そのミキよりも背の高いオーボシがうやうやしく頭を下げ、ウチマルに名刺を差し出す。

「オーボシ・ヨシユキと申します。どうぞお見知りおきください。細かな問題については、私が動きます」

 名刺に書かれた彼の肩書は、「衆議院議員 美木兵衛ミキ・ヒョーエ事務所」とだけある。仮に秘書であればそう書かれているはずだが、そうでもないらしい。

 ミキ同様老齢のウチマルは、オーボシが自分より二十歳以上は下だろうと見た。それでも、七三に分けた前時代的な髪形や堂に入った和装が、妙な威圧感を放っている。

 ――誰であろうと、政治家のミキとともに行動する人間とあれば、ただものではない――。そう思ったウチマルは、年下だからと油断せず、慇懃いんぎんに名刺を交換した。

 オーボシは畳の上に膝をついてから、にじり寄って座布団に座る。マナーに則った丁寧な所作が、隙のない印象をウチマルに与えた。

「ウチマルさんのおっしゃることも、もっともです。新聞社や放送局に話を通したところで、安心できるとは限りません。ゴシップを扱う記者や会社に対して、やはり懸念があるものかと」

「そうだ。私としては、そこが心配なんだ」

 全員が緘口令に従うなどありえない。世間には、多少の危険を冒してでもタブーに切り込もうとするメディアが必ずいる。ウチマルはそう確信していた。そうした人間までは、彼でも止められない。巷で発生する政治団体の襲撃事件に報道が触れないとくれば、反権力をうたう人間は飛びつくに違いない。

 政府の力が働いているとか、誰かの陰謀だというのは、質の悪いゴシップにありがちな文言だ。普段はとるに足らない言説だが、今持ちかけられている話はまさにそれだった。実際にミキの力が働いているからこそ、誰にも悟られずにやる必要がある。

 根拠のない低質な噂が真実味を帯びることほど厄介な事態は、そうそうない。嘘が通れば道理引っ込むという事態は必至だろう。

 不安に思うウチマルに、オーボシは冷静な顔で対応する。

「私の方でも、ウチマルさんの言いつけを守らない人間がいないか監視いたします。もしそうした人間の情報をつかみましたら、私にご連絡を」

 オーボシとウチマルを交互に見ながら、ミキは言う。

「この男、存分に利用していただいて結構です。まだ若いが、こういった仕事に関しては、それなりに場数を踏んでいる。出版や放送の界隈には、もうすでに顔が利いていましてな」

 ミキの言葉は、本当だった。オーボシはすでに、ミキを後ろ盾に出版社や放送局へ緘口令を敷ける手腕を身に着けている。

 かつて遠海塾の息がかかったアイドルグループが、同じアイドルであるナビキとヒビキを中立派に取り込もうとしたものの、返り討ちにあっている。二人の機転と保守派のファンの力に屈し、服を脱がされた写真を撮られてしまった。通常であれば、重大なスキャンダルだ。

 しかしオーボシは、この失態を世間に広めないために、テレビ局と出版社に対しミキを後ろ盾として口封じに出る。ミキ自身は、報道関係の経歴を持つ人間ではない。それでも、政治家と名の付く人間の力を借りた緘口令に、メディアの上層部はすぐに従った。現に、そのスキャンダルは一度も報道されず、今日に至っている。

 報道業界にも、ミキは影響力を行使できる。そう知ったオーボシはいよいよ、ミキとともに重鎮ウチマルとのコンタクトに取り掛かっていた。

「今回の件でウチマルさんのご信頼をいただけた暁には、今後も厄介なメディアへの対応をいたします。ぜひご命じください」

「ええ。……しかし、いったいどうやって? そういう輩にとって、ちょっとやそっとの脅しなどガソリンのようなものです。むしろよく動くようになってしまう……」

「おっしゃるとおりです。つまりは、……そういうことです」

 オーボシは直接的な表現を避けたが、その意味を理解したウチマルは背筋がひやりとする。ちょっとやそっとどころでない脅しをかけるということだ。

 ウチマル自身、まがりなりにも業界内では高い地位に就いているとあって、公にならない取引に対する知識も、ないわけではない。しかし同時に、迷惑行為もいとわない恐れ知らずのゴシップ誌が持つ恐さも知っている。そうした厄介な存在を黙らせるほどの脅しなど、想像するだに恐ろしい。

 ――ミキと行動を共にするこの男は、果たして何者なのか。どういういきさつでミキと関わったのか――。ウチマルはうかがい知れない。もっとも、裏金が絡んでいる以上、気安く探ってはいけないのは明らかだった。


(ここまでで約10ページです。続きは本編で!)

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