労働者のノクターン(第二巻収録)
ダイトーア・東京の道は狭い。戦後から爆発的に人口が増えたということもあるが、一番の理由はそこではない。人口増加に対し、東京の自治体が早々に車社会への移行を諦めたからだ。
生活するうえで自動車が必須である広大な田舎とは違い、東京はごく小さな範囲に人が密集して生活している。彼らが一様に車を持とうものなら、渋滞と混乱はもはや避けられない。
そこで自動車道の代わりに発達したのが、鉄道・モノレール・タクシーといった公共交通機関だ。さらに、駅から駅へ移動し生活するダイトーアの人間に合わせ、駅の周辺は飲食店やショッピングモールが乱立する。結果、まるで建物に押しつぶされるようにして、人の群れが通れる程度に狭い道だけが残されたのだった。
そうした状況は、今マサヒロたちが訪れている下北沢の街も同様だ。メインストリートでさえ片側一車線道路でしかないこの街は、飲食店や企業に出入りする業者以外の車など通れたものではない。
細い道の両脇に張り付けられたビラの内容は、どれもが若者の言葉で綴られた政治標語だ。「村議会のような世の中だ」「手を挙げろ」「タイムを伸ばせ」といった、若い世代にしか伝わらない文言が、雑然としたこの街ならではの雰囲気を作り出している。
駅からほど近い場所に広がる繁華街。そこでは飲食店はもちろんのこと、劇場が至る所に点在していた。役者を夢見る若者たちがこぞってここに集まっては、思い思いに
演劇を見ては稽古に励み、酒を飲んでは議論を交わす。だがそれだけでは生活できないので、アルバイトや日雇いで金を稼ぐ。そんな日々を繰り返す人間たちのギラギラとした目が、街灯の数よりも多く街中に光っていた。
その日のマサヒロたちは、夜中に本番を迎えていた。繁華街の地下でひっそりと営業するライブバー「アー・ベー・ヴェー」。そこでの演奏が、今日の仕事だ。
狭いバーということもあり、第〇楽団全員が演奏に駆り出されたわけではない。マサヒロと守信を加え、十人ほどの団員のみで演奏を行っていた。
ただ今日のメンバーは、楽団の中でも特に腕利きの者や、古参の団員が中心だった。そのせいか、まだ楽器の経験が浅いチャンスは参加していない。マサヒロもまた、打楽器の人数合わせで連れてこられただけにすぎなかった。
なぜなら今日演奏している曲目は、生半可な技術では演奏できない、特に難しいものばかりだからだ。第〇楽団を呼んだバーの主人きっての希望で、あろうことかオーケストラの曲を演奏するよう指定されたのだ。
そして今、楽団が演奏している曲は、チャイコフスキーの「一八一二年」。ロシア帝国軍とフランス軍の戦争を描いた、ゆうに十分を超える大曲だ。そもそも、なぜオーケストラの曲をわざわざこのような場で演奏するのか? 本番前まで、マサヒロはそれが不思議だった。
だが、バーの客は演奏をずいぶん真面目に聴いているようで、全員がステージを食い入るように見つめる。酒の入った客が果たして演奏を聴いてくれるのかマサヒロは疑問だったが、意外にも客は熱心で嬉しいものがあった。
演奏にも熱が入る一方で、曲の難易度はひととおりではない。楽団一の実力者であり、コルネットパートの
ドンジンは朝鮮出身の古参団員で、守信と同じく年長の一人に数えられている。身長も高ければ体重も重い巨漢の彼は、プロのオーケストラでも通用する実力を持つ、難しい楽曲を演奏するうえで不可欠の存在だ。第〇楽団には、さらなる活躍の場を求めプロへ移籍する者もいるが、彼はこの楽団に操を立てている。
守信もまた、眉間に皺を寄せながらトロンボーンのスライドを動かした。楽団の先頭で指揮をするユキも、バーという狭い空間でオーケストラ曲を振るというイレギュラーに、四苦八苦しているようだった。
マサヒロはその様子を見ながら、ゆっくりと打楽器を持ち替える。彼に限っては、人数合わせであるだけに難しい楽譜を与えられていない。
それでも、この「一八一二年」という曲では一つ大事な役割を任せられている。そして、もうすぐその出番がやってくるのだ。
曲は後半部分に差しかかった。フランス軍を表す「ラ・マルセイエーズ」のテーマをテナーホーンが奏でる。すると、それに反応して客たちからどっと声が上がる。中には、歌詞を歌う者もいた。
「Allons enfants de la patrie!」
フランス軍が侵攻してきたロシアに、雪が降りだす場面。いわゆる冬将軍だ。コルネットが、降雪を表現した細かいパッセージで合いの手を入れていく。それを聴きながらマサヒロは、スピーカーに繋いだタブレット端末を手に取った。これこそが彼に任された、今日一番の楽器だ。
次第に曲調が盛り上がっていき、ついにはそれが頂点を迎える。するとマサヒロは、意を決してタブレット端末を操作した。
途端にスピーカーから、凄まじい炸裂音が放たれた。大砲の音だった。
同時に客から大歓声が上がる。全員が、この轟音を心待ちにしていたのだ。
この大砲の音は、「一八一二年」の楽譜に正式に指定されたものであり、ロシア軍が放つ大砲を描写している。オーケストラの楽曲の中でも異色の演出で、演奏する際は実物の大砲を用意するか、それを模した音を出す必要があった。
今日は、タブレット端末に大砲の効果音を用意してある。マサヒロは楽譜に従い、決められたリズムで大砲を鳴らしていった。その度に歓声が上がるので、他の楽器の音が半ば覆い隠されてしまう。それでも、当の客たちは喜んでいた。
「Урааа!」
「Соединяйтесь!」
ロシア語で何か叫び出す者もいて、一種異様な雰囲気が出来上がる。マサヒロにとって初めての経験だった。
第〇楽団は政治団体への訪問演奏を一番の仕事としている。それだけに、今までマサヒロが演奏を披露してきた客の多くは、毅然とした厳めしい顔の団体員だ。例外で言えば、いつか参加した保守系アイドルのバックバンドくらいのものだった。もっともその時は、あくまでアイドルが主役であり、自分らの演奏自体にじっくり耳を傾けられることはなかった。
純粋に楽団の演奏で、熱狂する客がいる。それは、確かに誇らしいことではあった。一方でマサヒロには、気になることもある。
――この人らも、ただのバーの客ではないんだ――。
そう考えつつ大砲の音を鳴らすうちに、曲が終わった。拍手と喝采のうちに、次の曲の準備を始める。マサヒロもタブレット端末を置き、今度はバスドラムとシンバルの前に移動した。この二つならば、もう扱い方はそれなりに覚えてきた。楽団に加入して、最初に任された楽器だからだ。
次の曲は、ショスタコーヴィチの交響曲第五番。この曲もまた、バーの主人がぜひ客のために演奏してほしいと言ってきた曲だ。その真意は、楽団全員が察していた。
客も興奮冷めやらぬ様子で、次の曲を歓迎して一層の拍手を送った。それを見て、確信は深まる。――やはり、そういうことなのだろう――。
ダイトーアでは、この曲に「革命」という副題をつけている。この曲は、かつてのソビエトで絶賛を受けた曲なのだ。
ソビエト、革命、そしてロシア帝国の勝利。これらを描いた曲で熱狂する彼らは、革新派の若者たちだ。
第〇楽団がこのバーに呼ばれたのは、単なる巡りあわせや気まぐれではない。政治思想を持った人間が集まる場所で、政治的な背景のある楽曲の演奏する、やはり楽団の活動に沿った依頼なのだ。
(ここまでで約7ページです。続きは本編で!)
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