第24話 咲と校内デート②

 バランスを崩した咲がぞっとしたのは、運悪く踏ん張りの利かない体勢であったため、確実に利き腕を床にぶつける、数秒後の未来が脳裏をよぎったからだ。

 ドサッ!!

(――……あ……れ……? ……どこも痛くない……)

 咲がそう思うと同時に、背中に回った腕と硬い胸板を感じて、やっとシュウが自分の下敷きになっていることを認識する。そして目を開けて初めて、許嫁と唇が重なっていることを自覚したのだった。

 ガヤガヤと準備室へ入って来た10人の女生徒らが、倒れたシュウと咲のキス場面を目にして「まぁ……♡!」と驚喜の声をあげると、シュウに覆い被さったまま固まっていた咲が、はっとして上半身を起こす。

「ちちち違うからっ! こ、これは事故で、私たち何も……!」

「咲さんったら、それほど必死に否定しなくても……♡」

「だだから違うんだってば!」

 混乱しながらの弁明は無駄に等しい。目撃した少女たちにしてみれば、事故であろうがなかろうが、キスをしていたことに変わりはないのだ。

「痛って……咲、どこか打たなかったか……!?」

 後頭部をさすりながら上半身を起こしたシュウは、とても心配そうだ。

「キミが庇ってくれたお陰で平気だよ。シュウ君こそ、私のせいでごめんね」

「いいって。でも一応整形外科行っておけよ」

 学園には女性の看護師・内科医・外科医・整形外科医たちが常駐している医療施設があり、生徒たちの病気や怪我に、24時間対応している。

「よいしょっと」

 シュウが咲を横抱きにして立ち上がった。

「ちょっ――! じ、自分で歩けるってば……!」

 安定感のある力強い腕。今まで経験したことのない焦りや恥ずかしさの波が、津波のように咲に押し寄せる。


「お二人のご関係は口外いたしませんから、ご安心ください♡」

「えぇ。もちろんですわ」


 同級生たちの言葉に、咲はめまいがしそうだった。

 令嬢であってもゴシップは大好物で、なかでも一番広まりやすい恋愛に関する事件を口外しないなど、彼女たちにできるはずがなく、二人がキスをしていたというニュースは、遅かれ早かれ学園中に広まってしまうだろう。……シュウに余計な注目が集まれば、それだけ正体を隠していくのが難しくなるというのに。

 取り返しのつかないことをしてしまった、と咲が自分を責めていると、シュウが礼儀を欠いた少女たちに言葉を返した。

「俺もお前たちがノックするの忘れて入って来て、咲に怪我負わせかけたことは黙っておいてやるよ」

 ざわっ――

 やっと責任が自分たちにあることを察したのか、少女らの顔がみるみる青ざめていく。そして謝罪の言葉を口にしたのだが、咲を抱えたシュウはさっさと部屋を出てしまった。


 レントゲン撮影と入念な診断の結果、どこにも異常がなかったことが判明し、咲は足早に待合室へと向かった。もちろん、我が身のことのように心配してくれたシュウを、早く安心させてやりたかったからだ。

「異常ないって」

「よかった」

 咲の報告に、シュウの顔がほころぶ。

「あっ! 眼鏡の八時間は!?」

「あぁ。ここ来てすぐトイレ行って、20分ぐらい外してきたから大丈夫だよ」

 初日の洗礼のような頭痛のお陰で、こまめに眼鏡を外す習慣が身に付いたらしく、シュウはあれ以降、激痛には見舞われていないそうだ。

「……今日は、本当に助けてくれてありがとう」

「いいって」

 ソファーから立ち上がって自動ドアへ向かうシュウの背中に、視線を送る。

(シュウ君にとって、助けたり優しくすることは、全然特別なことじゃないんだろうな……)

 まざまざと男らしい優しさをみせられ、咲は”許嫁”という、少し時代錯誤の関係を初めて心地よく感じた。

 実はシュウが学園に転校してくる数カ月前、咲は偶然”宗四郎”を目にしていた。というのも、たまたま買い寄せたスポーツ誌が、全国高校サッカー選手権で優勝したシュウの高校を大々的に取りあげていたのだ。

 数年前に両親が言った通り、許嫁はとても優しそうな好感のもてる男性であったが、何よりも咲の心を打ったのは、試合中の写真から見てとれた、彼のサッカーに対するあふれんばかりの愛情と情熱であった。

「ふふっ……」

 思わず笑ってしまったのは、自分以外の許嫁も、シュウに好感をもっているに違いないと思ったからだ。

 許嫁候補になると決意した動機はどうあれ、きっと皆が、優しく頼もしい彼を好きになるだろう。

 咲の胸に、初めてテニスに出会ったときのような、ドキドキとわくわくが広がっていく。

(いつか、テニスとシュウ君を天秤にかける日がくるのかな……)

 シュウに会う前は想像すらしなかったことも、今なら現実的に考えられる。しかし今はまだ来ぬ未来を不安に思うより、現在を精一杯過ごそうと決め、咲は顔を上げてシュウを追った。


 自室に着き眼鏡を外す前、シュウに「……戻っても大丈夫?」と尋ねられる。

「う、うん」

 雑誌でしか見たことのない”宗四郎”との初対面。期待と緊張が入り交じり、咲は思わず手をぎゅっと握りしめた。

 ”シュウ”は175cmに見えるよう設定されているが、”宗四郎”はそれより10cm高い。きっと開発者が、185cmは高校二年生の女子としてはあまりに高く、さすがに目立ちすぎると考えた結果だろう。

「――……」

 そういった訳で、突然現れた予想以上に長身の宗四郎に、咲は言葉を失ってしまうのだった。

「もしかして怖い……?」

「ううんっ! お、思ってたより身長が高かったから、少し驚いただけ」

「そっか。……あんまり片づいてねぇけど、テキトーに座って」

「メイドさんに掃除頼んでないの?」

「掃除はしてもらってるけど、片づけられるとかえって不便だから……」と冷蔵庫のほうへ向かう宗四郎。

 咲が部屋を見渡すと、ベッドにはゲーム雑誌。床にはサッカーボール数個がごろごろ。70インチはある、ほとんどゲーム専用と思われるテレビの前には、ゲーム機本体とゲームソフトが散乱していた。

(……男の子の部屋って感じ)

 ほほ笑ましい気持ちになるのは、母性本能のせいだろうか。

 ソファーに腰かけると、目の前のテーブルに置かれていたサッカー雑誌に目がいく。

 幼少時からの神がかった宗四郎の活躍ぶりも、膝の故障でサッカーの継続を断念したことも、高遠家からの報告で知っている咲は、そっと手に取った雑誌を複雑な思いで見つめた。

(未練がない訳……ないよね……)

「飲み物、ペットボトルの水しかねぇんだけど」

「わっ……! ご、ごめんなさいっ」

 咲が慌てて本をテーブルに置く。

「何が? ……って、あぁ」

 苦笑を浮かべた宗四郎がペットボトルを咲に手渡し、正面のソファーに座った。

「気にするなよ。医者に言われてすぐやめたお陰で、趣味でやる分には支障ねぇんだし」

「うん……。えっと……宗四郎君は普段、どんな運動してるの?」

 気を取り直して話題を変える。

「俺は外出許可いらねぇし、ロードバイクでフットサルしに行ったりしてるよ」

「いいな。私も色んなとこにランニング行けたら、もっと楽しいのに」

 通常の生徒は外出が厳しく制限され、例えば愛名の芸能活動も、許嫁の特例として認められているだけで、本来は禁止事項となっている。許嫁特例はほかにもあり、宗四郎とのデートが理由の場合、彼女たちにも即外出許可が下りることもそのひとつだ。

「なら今度、一緒に外出しようか」

「――そ、それって……デートに誘ってくれてるの?」

「え……あ……う、うん」

 その反応からして、宗四郎は女の子を外出に誘うことが、デートに誘うことと同義だとは知らなかったらしい。

「じゃあ……私の大会が終わったら、スポーツデートしよ♪」

「うん」

「あは♪ 私デートするのって初めて――」

 ”初めて”。そのキーワードで、懸命に蓋をしていたファーストキスの瞬間が、質感を伴って鮮明に蘇り、咲の心臓が暴走機関車のように鼓動を速める。

「咲?」

「……キ……キスのこと、思い出しちゃって……」

「あー……」

 視線を上へ向け、困った様子で頭をかく宗四郎。咲の怪我を心配するあまり忘れてしまっていたようだが、忘れていていいことではない。

「ごめん……って謝っても、もうどうしようもねぇけど」

「み、見られたのは恥ずかしいけど……ファーストキスが宗四郎君なのは……別に……」

 後半部分の声量が、思わず小さくなってしまう。

 それにしても胸に続き、またもや事故からの接触。不可抗力なだけに、咲が(運命的なものでもあるのかな……)と勘ぐってしまうのも無理はない。

「そ、宗四郎君は……嫌じゃなかった?」 

「全然……嫌じゃねぇよ」

「ホントに?」

「うん……」

「……よかった。私ほかのみんなみたいに髪長くないし、肌も焼けちゃってるから、色々不安だったんだよね……。でも……考えすぎてたのかも」

 咲は愛名やサラに引けをとらず愛らしく、発育のいい胸や美しい身体のライン、大人びた表情からは色気がたっぷり出ている。なのに自分の魅力に気がついていないとは、なんともテニス一筋に生きてきた彼女らしい。

 しかし宗四郎はどうやら、咲との関わりにおいては特に強く、彼女のプロテニスプレイヤーの夢を最優先し、最大限応援しようと自分自身に堅く誓っているようだ。

 咲の夢が二人の関係の大きな障害になるのか、はたまた大きな後押しとなるのかは、まだわからない。

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