第22話 咲の回想
早朝のランニングをしながら、咲は約四年前の冬の記憶を辿っていた。
『那奈さんの高遠家と倉本家は、古くからの付き合いがあってね。今日は咲と話をされるために、お見えになってくれたんだよ』
『はじめまして咲さん。高遠那奈と申します』
父が紹介してくれた女性は地味なスーツ姿で、身に着けているアクセサリーは一切なかったのだが、その必要性が感じられない美貌と、人を惹きつける不思議な魅力のある人物で、外見だけで判断すると19か20歳くらいだろうに、その年齢でここまで落ち着いた雰囲気を醸し出せる彼女を、咲は少しだけ恐ろしく思った。
『倉本様のご息女は、凛とした美少女だとうかがっておりましたが、お言葉通りで、本日お会いできましたことを心より光栄に存じます』
那奈の言葉とほほ笑みに、思わず胸が高鳴ったことを今でも覚えている。
咲はその理由を説明できないが、それは
那奈が倉本邸を訪れた日は一月下旬の、都心でも積雪があったほど寒い日で、その日ばかりは、滅多に使われることがなかった暖炉に火が入れられたぐらいだ。
天井高5m。広さ50畳。大型の一枚ガラスがテラスとの間にはめ込まれている広いリビングだが、暖炉からの遠赤外線のお陰でうっかり眠気を誘われるほど暖かい。
天窓と中庭にうっすらと積もった雪を見た咲に、ふと、彼女がこの雪を連れて来たのかも……との考えが浮かんだのは、那奈に冬の雰囲気があるせいだろう。
暖炉を囲むように設置された、大きなアメリカ製の高級ソファーに、父と咲、那奈が腰を下ろすと、咲の母がそれぞれの前に、アンティークWEDGWOODのティーカップを置いた。
リラックス効果のあるハーブティーをいただきながらも、やはり緊張してしまい、なかなか話せない咲だったが、天才的に聞き上手な那奈のお陰で、数分もたたないうちにリビングには笑い声が響いていた。
……今思えば、このときの会話は許嫁候補の最終試験だったのかもしれない。
そして那奈に許嫁の話を切りだされたのは、それから30分ほどあとのことだ。
『許嫁……』
困惑しながら正面の両親を見る。しかし二人とも『心配はいらない』と言ってほほ笑むだけで、咲はおずおずと視線を那奈へ戻した。
那奈は決して強制ではないことを前置きに、まず高遠研究所の歴史と事業について話し、続いて入学が必須条件である、”百合園学園”の説明をしていく。
結婚することになったとしても、テニスの夢を諦める必要はまったくないので安心してほしい――といったことを、懇切丁寧に伝えられ、最後に、婚約者には許嫁があと四人いることを打ち明けられた。
今までずっとテニス中心の生活だった咲にとって、”恋愛”や”結婚”などは単なる言葉でしかなく、自分が首を縦に振るだけで許嫁が誕生するなんて……夜の夢でさえみた覚えはない。
『こちらが私の弟で次期当主、高遠宗四郎の資料でございます』
そのプロフィールに彼の顔写真がなかったことに、なぜか安堵の気持ちを覚えてしまう。
写真を添付しなかった那奈は、その安堵の理由を、当事者の咲よりずっと正確に説明できるだろう。
『もし弟の姿をご覧になりたいのであれば……』
那奈が差し出したタブレットに、手を伸ばすことをためらう咲。その背中を父と母が押してくる。
『高遠家の方は頭脳もさることながら、容姿端麗なことでも有名でね。一度宗四郎君を見たことがあるけれど、申し分のない男の子だったよ』
『背が高くて、格好よくて、優しそうで、運動神経もよくて……本当に、咲ちゃんだけの許嫁だったらって思うわ』
両親から無言の強制をひしひしと感じる。
タブレットを取らなかったのは、”宗四郎”にテニスの情熱を奪われないよう、防衛本能が働いたからかもしれないし、あるいは自分からテニスを取り上げようとしている両親への、ささやかな抵抗であったかもしれない。
……どうせいつか出会う運命ならば、せめてそれまでは、現在の
(……私、宗四郎君の好みのタイプじゃなかったのかなぁ……。別に、それならそれでいいんだけど……)
宗四郎が許嫁について、なんの情報もなく転校して来たことなど知る由もない咲は、話しかけてくれない理由を、自分に魅力がないせいだと思い始めていた。
そして宗四郎のことを考えると、どうしても中庭でのことを思い出してしまうのだ。
(だからあれは事故で、気にしてもしょうがないのに)
ランニングのペースを速め、胸を触られた記憶を振り払おうとするも、なかなか消えてくれない。
このファーストコンタクトがブレーキとなり、あれ以来自分から話しかけられずにいるのだが、まだまだ事故とは割り切れそうにもなく、身悶えてはトレーニングに打ち込む日々を繰り返している。
(今日は練習休みの日で、時間あるんだけどな……)
自分から許嫁に話しかけるハードルは高くなりすぎて、あとは向こうからのアプローチを待つしかない咲であった。
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