第16話 疲労からの発熱
翌日土曜日。
「文句なしの素晴らしい演奏だわ、サラ」
「ありがとうございます……」
海外から招致している
「それにしても、昨日まではずっと集中できていなかったのに、一体何があったの?」
「……それは……その……」
すぐに宗四郎の顔が思い浮かんだが、安易に話すのはご法度だ。それが例え、幼いころから師事してもらっている先生であっても。
「昔からシャイなあなたの最大の課題は表現力だったけれど……少女から大人の女性になりつつあるのね」
さすが長年レッスン指導してきただけあって、サラの変化がどういった理由によるものなのか、うっすら感じ取ったようだ。
フラミリアの教え子にはコンクール優勝者が多く、彼女に教えを請いたい、広義においてのピアニストは門前に列をなす。
幾人もの原石を磨いてきたフラミリアにとって、サラ・レイハントンは珠玉の原石をもつ少女であっただろう。
レイハントン家はバロック音楽の時代から続くオーストリア貴族で、その家系には優秀な音楽家が数多く存在する。
その血と才能を余すところなく受け継いだサラの父は、歴史ある有名オーケストラの常任指揮者。母はフルート奏者で、若いころから高い技術と美貌で有名な、オーストリア出身の令嬢ときている。
サラはまさに音楽界のサラブレッドで、容姿・家柄・才能――そのすべてにおいて、百合園学園のなかでもトップクラスに入ることは、きっと本人以外の誰もが認めよう。
宗四郎と同じく”
プレッシャーに押し潰されてしまうのではないかと、フラミリアに心配されるほどだったが、繊細そうな見た目とは裏腹に、サラは初めて出場した由緒ある大きな国際ピアノコンクールで、最年少優勝の記録を塗り替え、さすがはレイハントン家だと世間に言わしめた。
ほとんどのマスコミは、サラの容姿とレイハントン家の血の優秀さを褒め称え、娘に才能を受け継がせることに成功した両親たちへ称賛を贈ったが、サラのたゆまぬ努力を誰よりも知っているであろうフラミリアは、取材を依頼してきた記者に、『どんなに優れた血も原石は磨けない。サラはピアノへの愛と、愛から生まれる努力で原石を至宝にしたのよ』と話したのだった。
サラのコンサートチケットは毎回数秒で完売しているが、クラシックコンサートでこれだけ早くソールドアウトさせることができるのは、いまだ彼女以外に存在しない。
「学園在学中は公演のオファーを受けない。……あなたのその決断は、ファンにとっては寂しいことでしょうね。けれど普通の少女としての時間は、必ずあなたの宝物になるわ」
優勝以来殺到し続けている有名指揮者との共演や、海外公演の依頼を、今までは可能な限り受けてきたサラだが、去年からはすべて断っており、残るは二年前に受けていたリサイタルだけとなっていた。
フラミリアはそれを学園での生活を満喫するためだと思っているようだが、本当の理由は”宗四郎”だ。
「数年前、Ms.カッレがおっしゃってくれたように、ピアノばかりではなく色々経験することも必要だとずっと考えていました。……最初はピアノのためでしたが……今は、学園での生活が楽しいです」
サラに縁談話が持ち込まれたのは、コンクール優勝から数カ月後の12歳のときで、確かにこのころから『サラ・レイハントンに足りないものがあるとすれば、それは表現力だろう』といった声は聞こえていた。
しかし許嫁になることを決めた動機がピアノとは、なんとも真面目なサラらしい。
「女学園で恋をすることは難しいと思うけれど、素敵なボーイフレンドができたら、私にも紹介してちょうだいね」
「は……はい……」
サラのあまりの赤面ぶりに、「
ピアノレッスンは午前中で終了し、ランチ後の午後二時半に宗四郎の部屋へ向かう。
いつもより歩くスピードが速いことに、サラは気がついていない。
昨夜は彼の長い髪の隙間から、グレーの瞳と眉間から力強く真っすぐに伸びた鼻筋が目に入って、どうしてか無性に恥ずかしくなり慌てて帰ってしまった。
今思い出してもドキドキしてしまう。
許嫁に話しかけるまで二週間も要してしまったが、こんなに心が弾む気分になれるとわかっていたなら、もう少し早く勇気を出せただろう。
コンコン
最上階の最奥にある部屋の前で、一度深呼吸してからノックするが、なかなか部屋の
(時間は間違えていないし、お休み中……かしら……)
不安を覚えた約一分後、ようやくゆっくりとドアが開いた。
「待たせてごめん……」
「大丈夫でらっしゃいますか……?」
サラから挨拶より先に心配する言葉が出るほど、シュウは具合が悪そうだ。
どうやら発熱があるらしく、肩で息をしている。
「せっかく来てもらったのに悪いけど――……」
ぐらりと前のめりにシュウの身体が倒れていき、
「あっ……!」
咄嗟にサラが手を伸ばしてしまう。
スレンダーに見えても、シュウは180cmオーバーの筋肉質な”宗四郎”なのだから、ピアニストの華奢な腕で支えられるはずもなく……。
「きゃ――」
ドサッ……!
サラに覆い被さるようにして倒れた拍子にシュウから眼鏡が外れ、カーペットが敷かれた寮の廊下で、あろうことか宗四郎に戻ってしまう。
「あ……あのっ……宗四郎様」
震えるソプラノの声で呼びかけるも、返事はない。
サラの胸が破裂しそうなほど大きな鼓動を打っている理由のなかには、もちろん宗四郎が重い――ということもあるが、今誰かが通りかかったら……という危機感と、許嫁とこれ以上ないほど密着している状況が大きい。
すぐにあたふたしている場合ではないと思ったサラが、床の眼鏡を拾い、懸命に起き上がろうと身体を動かし始める。
冷静になるのが早いのは、普段のメンタルトレーニングのお陰だ。
「宗四郎様……どうか起きてください」
声をかけつつ、大きくて熱い身体を揺すると、カーペットに突っ伏していた頭を、サラへ向けた宗四郎の熱い息が首にかかる。
「きゃあっ……!」
図らずもその悲鳴で少し意識を取り戻したらしく、宗四郎は頭をサラの身体の上で引きずるように上半身を起こしていった。薄いブラウスの上から、まるで愛撫するように。
「ひっ……あっ……」
しかし頭がサラの胸の上を通ったとき、タイミングよくブラウスのボタンが外れ、再び意識を失った宗四郎の顔が、豊かな胸に埋まった。
「うー……頭いてぇ……」と呟きながら身体を起こした宗四郎。すぐに自分の下敷きになっているサラに気がついたようだ。
「ご、ごめんっ! 俺、いつの間にか倒れてて……怪我なかったか?」
「だいじょうぶです……。でも……からだにちからが、はいらなくて……」
宗四郎に廊下での記憶がないのは、お互いにとって幸運なことかもしれない。
「抱えて行くから掴まって」
「きゃっ……」
軽々と担ぎ上げられ、サラは部屋のベッドに優しく下ろされた。
そして宗四郎は再び、糸が切れたようにベッドへ倒れ込んだ。
「……はぁ……」
サラが自分の左胸にそっと手を当てると、大きな胸の上からでも鼓動が伝わってくる。
宗四郎の許嫁になることを承諾してから数年たつ。だがいざ許嫁を目の当たりにしてみると、してきたはずの心の準備など、無意味だった――と、サラは思い知らされた。
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