第10話 沙針愛名 Ina Sahalee

 転校初日を終え、疲労困憊のシュウ。

(やっと寮に帰れる……)

 わかっていたことだが、正体を悟られないよう気を遣い、慣れない授業を受けるのは精神をすり減らした。

 高遠家の跡継ぎとして英才教育を受けて育ち、母が亡くなってからは、春と那奈によるトラウマレベルのスパルタ教育。転校前の高校では工学科だっただけあり、理数系は一応得意であるし、八歳までの英国暮らしで英語は身に付いている。

 だが学園の授業は予想外にも、淑女としてのマナーや、所作・料理・刺繍などで、五教科以外の時間はほぼそういった花嫁修業なのだから、心は粉砕骨折だ。

 個人レッスンを必要としない生徒は、必然的により多くの花嫁修業の授業が割り当てられることを転校前に知れていたなら、無理矢理にでも特技をつくっていたのだが。

(どうでもいいようなことしか教えてくれねぇんだもんな)

 学園の配置図などといったことしか教えてくれなかった那奈のせいで、シュウの学園内情は乏しい。

 平面図を記憶していたシュウが、実際に目にしてみようと思い、寄り道したイギリス式庭園。その懐かしさに、思わず足が止まる。

 この完成度なら、ガーデンガイドであるイエローブックにも即掲載を許されるのではないだろうか。

 今日はちょうどいい気温で風が心地よく、一瞬自分がどこにいるのかを忘れてしまいそうになるも、突然の頭痛で、心地よさや懐かしさは消え失せた。

 小まめに変身を解除するように――との春からの忠告をうっかり忘れて、八時間以上姿を変えているせいだが……うっかりの代償にしては重すぎる痛みだ。

(八時間が近づいたら警告してくれる機能ぐらい付けといてくれよ……)

 それはのちほど春に頼むこととして、とにかくさっさと寮へ戻らねば、行き倒れてゲームオーバーだ。

 コンシェルジュが常駐し、噴水も設置されている寮のアトリウムロビーから、エレベーターで自室のある最上階へ向かう。

 許嫁を部屋に呼ぶことを考えて、眺めのいい最上階を用意したのかどうかは知らないが、一刻も早く部屋に戻りたい今のシュウにとっては、ありがた迷惑なだけだ。

 そしてトイレとバスルーム完備の、ドアに鍵がないことを除けば、高級リゾートホテルのような部屋にやっとの思いで帰宅する。

「もう限界」

 すぐにプログラムを停止させ、ベッドへダイブすると、

「きゃっ……!」

 布団のなかから聞こえた小さな悲鳴に、宗四郎の身体から血の気が引いていく。

「――!?」

 そして次の瞬間、布団の下から現れた少女に目が釘づけになる。

 光を閉じ込めたような艶をもつ、柔らかそうなショコラブラウンのロングヘア。

 猫を思わせる琥珀色の瞳と、眉間からすっきりと通った鼻筋。

 思わず触れたくなる血色の、ふっくらとした唇。

 頭痛も忘れてしまうほど、美しく高貴な彼女からは、気高いオーラが漂っていた。

(さ――…………沙針愛名――!?)

 信じられないことに、宗四郎の目の前にいるのは、世界大会五連覇中、乗馬界のプリンセス・沙針愛名であった。

 本名はInaアイナ Sahaleeサハリーなのだが、彼女が生まれたときに、”沙針愛名”という日本名も授けられたらしい。

 由緒ある英国貴族の血筋がうかがえる、気品ある美しさ。

 メリハリのあるスタイル。

 唯一無二の乗馬の才能。

 世界中の人間が一瞬で愛名の虜になった。

 彼女のファンは年代や性別を問わず数多くいるが、やはり若い世代からの人気と認知度は恐ろしいほど高く、インスタグラムのフォロワーは優に一億人を超える。

 それも本人ではなく、エージェンシーがやっているアカウントだと公表していながら、このフォロワー数なのだから、なおさら凄まじい。

 寮の各部屋は鍵が付いていない仕様のため、他人が部屋に忍び込むのは簡単なことではあるのだが、彼女がここにいる理由は、宗四郎には見当もつかなかった。

(なんで俺の部屋に沙針愛名がいるんだよ……)

 頭がメダパニ状態で何も言えずにいる宗四郎を、愛名は不思議そうに見つめた。

「ごめんなさい。驚かせようと思って、勝手に入って待っていたの」

 愛名の少し大人びた澄んだ声で、ようやく思考が再稼働する。

 男の存在にまったく疑問を抱いていない彼女の様子に違和感を覚えたが、とりあえず今は考えないこととしよう。処理できない。

(初日で正体バレるとか、那奈に殺されそうだな……)

「……誓ってやましい動機でいる訳じゃないから、できれば黙っておいてほしい……んだけど……」

 説得力皆無ではあるが、ほかに言うべき言葉が見つからないのだ。

 頭痛のせいで思考力が鈍っていなかったとしても、今の状況を切り抜ける最善の方法など、導き出せなかっただろう。

「……ふふっ」

 愛名が口に手を当てつつ笑う。

 容姿はもちろんのこと、その仕草や、声、香りまでもが人を惹きつけるチャーム魔法のようで、愛名の一挙手一投足から目が離せなかった。

 絶体絶命の状況下で、宗四郎は彼女の絶大な人気理由を、身をもって知ったのだ。

「最初の反応でもしかしてって思ったけれど……私がここにいる理由を知らないの?」

 軽く首をかしげて苦笑する愛名。

「檻のようなこの学園に私が入学したのは、あなたのためなのに」

「――そ……れって――」と、愛名に突然顔を覗き込まれる。

「――っ!? 何して――」

「しー♪」

 唇に人差し指を当てて、沈黙を求める仕草のかわいらしさに、宗四郎はつい言う通りにしてしまうのだった。

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