第8話 出会い

 自宅に戻った萌は、二階自室のベッドで枕を濡らしながら自分を責め続けていた。それでもとても許せそうにはなかったが……。

 幼いころは目の色や髪の色のせいもあって、しばしば男の子たちにからかわれていた萌。それは子供の歪んだ愛情表現なのだが、そのときはわかるはずもない。

 八歳のある日、男の子たちに追いかけられて転んだ萌は、起き上がる気力もなく静かに泣いていた。痛みや悔しさからの涙ではなく、すぐに転んでしまうドジな自分が心底情けなかったのだ。


『だいじょうぶか?』


 手のひらがすりむけて血が出ている萌に、唯一声をかけてくれたのは、数日前に英国から転校してきたばかりの宗四郎だった。

 少し寝癖のついたさらさらの黒髪に、小顔ですらりと長い手足。宗四郎は同学年の子より大分身長が高く、誰が見ても萌と宗四郎が同い年とは思わなかっただろう。

『その手、バイキン入るから洗いに行こう』

『あ……う……』

 自分に向けられる優しい言葉に、萌はなんと返事をしていいのかわからず、潤んだ大きな瞳で不安げにじっと見つめると、宗四郎はまるで安心させるように、ふっとほほ笑んだ。

 突然萌の前に現れたライトグレーの瞳の少年は、剣の代わりにサッカーボールを携えた王子様のようであった。

『立てる?』

 萌の怪我をしていないほうの手を取って立ち上がらせた宗四郎が、ワンピースの埃を払う。

『あ、ありがとう……』

 萌は涙で霞む目をハンカチで拭き、器用にサッカーボールを蹴りつつ、前を歩く宗四郎の背中を追った。

 時々振り返っては、萌がちゃんと付いて来ているか確かめてくれる少年の優しさが、少女の心をじんわり温めた。

『しみると思うけど』

『ん……』

 萌が恐る恐る傷口を蛇口からの水に当てると、せっかく止まりかけた涙が痛みで戻りそうになる。

『あと少しがんばれ』

 宗四郎は萌の頭を優しく撫でて励ましたが、男の子に優しくされることに慣れていないため、困ったことに今度は感激の涙が出てきてしまう。

『ぐす……』

『えーっと……ほら! こっちに集中してたら痛いのまぎれるかも』

 そう言ってつま先で蹴り上げたボールは、まるで生き物のように宗四郎の周囲を飛び跳ねた。

『わぁ……!』

 四六時中ボールに触れている宗四郎にとって、フリースタイルのリフティングはお手のものであろうが、萌には手品か超能力にしか思えない。

 あっという間に手の痛みは意識の外へと消え去り、萌はブラウンの大きな瞳を、きらきらと輝やかせた。

『すごい!! どうしたらこんなすごいことできるの!?』

『練習すればできるよ』

『そ、そうだよね……。でも私、運動とくいじゃないから、練習しても上手にならないと思う……』

 萌が恥ずかしそうに笑って見せたとき、四人の少年が萌の後方から迫って来ていた。

トロ子・・・にさわると、泣き虫とトロいのがうつるんだぜ』

『――……っ』

 振り返らずとも、先ほどまで自分をいじめていた少年たちの声だとわかった萌の表情に、恐怖が戻る。

『……傷、これでおさえておけよ』と言って萌にハンカチを渡した宗四郎が、いじめっ子たちへ歩を進めた。

『女と遊ぶようなヤツにサッカーボールなんてひつようないだろ。オレらが使ってやるからわたせよ』

『嫌だ』

『はぁっ!? オレの言うことが聞けねぇのかよ!!』

 宗四郎のはっきりとした拒絶に、ガキ大将的な子が鼻息荒く向かってくる。

 ドッ――……!

 狙いを定める時間もわずかに蹴った宗四郎のボールが、見事少年のおでこに当たると、糸が付いているかのようにあるじの足元へ戻った。

『こ、このっ……!!』

 おでこを両手でおさえながら、真っ赤な顔で宗四郎を睨むガキ大将は、こんな屈辱を受けたのは初めての経験らしく、激しい怒りで身体をぶるぶると震わせた。

『四人一緒で構わないから、ボールうばえなかったらイジメるのヤメてやれよ』

 宗四郎がリフティングしながら勝負を挑む。

『カッコつけやがって!! ムカツクんだよ!!』


 四人がギブアップしたのは、それから20分後のことだ。息を切らし、地面に大の字になっている少年たちとは対照的に、宗四郎は息切れどころか汗ひとつかいていない。

『くっそー……! こんどはぜったいボールとってやるから覚えてろよ!』

 定番の捨て台詞を吐き、少年たちが公園から去って行くのを、宗四郎はため息をつきつつ見送った。

『あ……あの、ありがとう……!』

 少し離れて見守っていた萌が、宗四郎に駆け寄る。

『いいよ。ボールけってただけだし』

『そ、そんなことないよ……! ボールが生きてるみたいだったもん……!』

『ほめすぎだよ。……それよりお前って、トロ子っていう名前なのか?』

『う、ううん……本当は、萌っていうんだけど……』

『かわいい名前だな』

『――!!』

 思いがけず宗四郎に褒められ、萌の頬が、かーっと熱くなる。

『家どっち? 送って行くよ』

『え……!? えっと、あっちだよ。ここからは五分ぐらい……』

 指で教えた方角へ宗四郎が歩き始めると、小さな萌は小走りに追い、

『あのっ、名前……おしえてもらってもいい……?』

 勇気を出して、自分を救ってくれた王子様に名前を尋ねた。

『高遠宗四郎。オレんちもここから五分ぐらいだから、家近いかも』

『ホント……!? ……ならまた、宗四郎くんに会えるかな……?』

 宗四郎が歩みを止めて萌に振り返ると、

『オレの名前長いから、宗四郎でいいよ。萌』

 そう言って優しくほほ笑んだ。

 ……その後、少年たちは宗四郎からボールを奪うことに躍起になり、いじめはぴたりとやんだ。

 リフティングをしながら歩く宗四郎に追いつけなかったあの日。背中を追い続けるのは、初めて出会った日から変わらないまま、その難しさだけが増していく。

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