第七話 先代高崎屋主人が語る
手前は、松本城下にて生糸問屋を営む高崎屋の伜でございます。家業を継ぐべき総領として生まれ、何一つ不自由なく育ってまいりました。
手前の父は、風流と申すものが大好きな商人でございました。若い時分に江戸のお店で修行したせいでございましょう。このような山国にあっても、なにかしら嗜みを持たねばならぬと、常々申しておりました。そのため、我が家には様々なお方が逗留なさっておられたのです。
江戸、大坂、京を初め諸国のめずらしい話、書画に俳諧、茶の湯などと、手前はそのような中で育ち、いつしか算盤をはじくよりも一文にもならぬ道楽者となっていたのでございます。
もともと商いには不向きでございました。生糸の相場がどうだとか、今年の天候と桑の育ちはどうだとか。そのようなことには一切面白みをおぼえず、父や店の者の目を盗んでは蔵の隅で書を広げたり、野山にでては草木を写したりと、そんな毎日を過ごしてまいったのでございます。
幸い、手前には弟がおりました。兄の口から申すも憚りながら、これが大変よくできた弟で、実直な性分は番頭たちの評判もよく、できることならこの弟に
父にもそれはわかっていたはずでございました。しかしある日、家業を継がぬのなら無一文で出ていけなどと申しました。これには手前も折れざるを得ませんでした。そこで腹いせに、無理難題を申したのでございます。
その頃、町でも評判の美しいお嬢様がおられました。城主戸田様ご家中のお嬢様で、名をりく様と申されました。
手前は父に、このりく様を嫁に迎えられましたなら、心を入れかえて立派な商人になってみせる、そう啖呵を切ったのでございます。
相手はお武家のお嬢様。無論、本気ではございませんでした。いくら我が屋が城下で指折りの大店とはいえ、たかが商人でございます。こののちに弟のことを切り出して、うまく事を運ぶつもりでおりました。
ところが日をおかず父はりく様のお宅を訪ね、玄関先に土下座して嫁に乞うたのでございます。
驚いたことに、りく様のお父上がこの縁談をご承知なさいました。父が一人相撲をしたところで、先様にその気がなければ進む話ではございません。それゆえにうまくいったと聞いた時は、到底信じることができませんでした。
こうなっては逃げ場はございません。手前は美しいお武家のお嬢様を嫁に迎え、高崎屋の身代を継がねばならなくなったのでございます。
婚礼は、菊の美しい季節でございました。りく様——りくは噂通り、とても美しいおなごでございました。気立てもよく権高くもなく、手前の父母にもよく仕え、何一つ申し分のない妻でございました。過ぎた嫁であると、皆が口々に申し、手前もりくが誇らしくてなりませんでした。りくのために慣れぬ商いにも精を出しました。町方に嫁いで不自由をさせては申し訳ないと、気のきいた女中を幾人か雇ったりもいたしました。
目まぐるしいものの不思議なほど満ち足りた日々に、手前もこれで立派な跡継ぎになれるのだと、以前のふわふわした生活は、おのれの無能に対する拗ねであったのかと、そう思い始めた矢先のことでございました。
父が他界したのでございます。
通夜に葬儀にと慌ただしくしているうちに、手前の気分はどんどん滅入ってまいりました。昨日までは若旦那と呼ばれていたものが、今日からは旦那様と呼ばれ、身内、使用人と何十人もの、いえその家族もいれると百人を下らない方便の行く末が、この肩にかかってまいったのでございます。
それがわかるとただ恐ろしく、まるで底なしの泥沼に足をつっこんだような心地でございました。
それでも父の死後、三月程はうまくいっておりました。しかし、心は次第に商いから離れ、理由もなく苛々と当たり散らすようになって、意見をしてくれた番頭を腹立ちまぎれに追い出したり、幼い丁稚をふた親の元へ叩き返したりもいたしました。こともあろうに、そんなろくでもないことで溜飲を下げ、得意げにりくに話を したこともございます。
しばらくお店を預けてほしい——弟がそう切り出してきたのは、根雪の溶け始めた春先のことでございました。手前には否も応もございません。商いには飽き飽きしておりましたし、渡りに船とばかり店を離れ、この屋敷へまいったのでございます。
この屋敷は先々代が土地の名主より譲り受け、手をいれて隠居所としたものでございます。見事な桜のほかは何もなく、世捨て人のようにひっそりと暮すにはうってつけでございました。手前は数日暮しただけで、もう二度と、店には戻らぬと決心したのでございます。無論、りくも女中とともに連れてまいりました。こんな亭主でございましたが、りくは愚痴ひとつ云わずついてきてくれました。むしろ手前を頼りきっているようで、そこまで慕ってくれていると思うと、愛しく思う心もひとしおでございます。
手前は、なにもかも満ち足りておりました。心底幸せでございました。幸せ過ぎて、夜中になるとわけもなく泣けてくるほど、幸せだったのでございます。これまで生きてきて、これほど幸せで夢のような日々があったろうかと、毎日神仏に感謝したい心持ちでございました。
ところが人とは不思議なものでございます。不幸であれば幸せを望み、幸せであればあったで、どこかに不幸は残っていないかと、裏をめくってまでも探そうとするものなのでございます。
業とでも申せばよいのでございましょうか。手前はおのれの幸せを信じきることがでませんでした。ありもしない幽霊をいると云って、おのれの影さえ恐れ始めたのでございます。
その時手前は、山のてっぺんにいるような心地でございました。坂をのぼりつめて頂上に立ち、足元の切り立った崖に、ふと気づいたのでございます。後ろにも前にも一歩も動くことはできません。動いたら最後、あとは落ちるしかございません。このまま立ち続けるに足場は頼りなく、崖を真っ逆さまに落ちていきそうでした。
そんな不安は、日々膨れ上ってまいったのです。堪えきれず、ある日りくに申しました。
するとりくは困ったように微笑み、思い過ごしだと申して、膝にすがった手前の背をやさしく撫でたのでございました。丁度幼子にするように、そして繰り返し申しました。
りくは旦那様を信じております、心配することは何もございません、と。
手前は愕然といたしました。なかば呆気にとられて、りくの笑顔をまじまじと見返しました。
手前はりくのやさしい言葉にそうかと、うなずくことができませんでした。
りくは手前を信じ、手前を頼りにしていたのでございましょうが、その信頼がいったいどこかくるものなのか、まったく検討がつかなかったのでございます。つれあいとはそのようなものと人は申しましょうが、手前はその時、やっと気づいたのでございます。
手前は、りくのことをなにも知りませんでした。なにを考え嫁ぎ、何を思ってこれまで暮らしてきたのか、そのかけらすら知ろうといたしませんでした。ともに暮らし、隣に寝る女のことを、何一つわかっていないことに、そこで初めて、ようやく気づいたのでございます。
しかし、りくは何もかも知っているのだと云わんばかりに微笑み、母親のように慰めてくれました。
そう気づくと、目の前にいる美しい妻が消えていくような気がしました。消えると同時に、得体のしれぬなにかが、りくの代わりに居座っているように思えてきたのでございます。
すべて手前の勝手な思い込みでございます。りくの真心は、まこと美しいものでございましょうし、むしろそれを疑う手前の方がおかしい。一途な心根に気味の悪さを覚え、信頼の眼を向けられるたびに、背筋が震えるほどの厭わしさを感じる。手前のこの心こそ、人の道に外れたものだとわかっておりました。
しかし、そんなりくの姿が昼も夜も手前を苛み始めたのでございます。美しかった妻は姿を変え、醜い化け物となって膨らみ続けました。季節が晴れやかになっていくほどその醜さ、穢らわしさは増し、いつか手前はりくの化け物に喰われてしまうのだと、そう思いこみ始めたのでございます。
弟が訪ねてきたのは、そんな折でございました。
店をあけてすでに三月。弟は上方で別の商いがしたいから戻ってくれないかと、そう申したのでございます。無論、兄である手前への遠慮だとわかっておりました。
しかし、この山国を出て他国で暮らしたいという弟の言葉が、すべて気遣いだとは思えませんでした。それは手前の夢でもございました。そう思って弟の顔をまじまじと見た途端、すとんと手前のなかでなにかが腑に落ちたのでございます。
快く弟の頼みを承知し、大坂へ出店をだすことを話し合いながら、ほんのり興奮に輝く弟の顔に満足いたしました。そして庭の桜が散ったら戻ると約束し、弟を見送ったのでございます。
実のところ、桜云々はその場の思いつきでございました。ところが口にした途端、それがとても大事なことだとわかったのでございます。この屋敷の桜というのは大変古い木で、太い枝を四方に伸ばして枝垂れ、満開の様はたとえようもなく美しいものでございました。
それをこの手で描かなければならない、写さねばならぬのだ。それこそが手前がここに来た使命である。
咲き始めた桜を前に、そう悟ったのでございました。
それほ天命でございました。そのために手前はこの世に命を受け、ここに在るのでございます。
そうとわかると、自然に心が昂ってまいりました。やらねばならぬ大仕事を前に武者震いが止まりません。手前にはわかっておりました。この天命を果たすことができれば、化け物になったりくも、きっと元に戻るに相違ない。すべてが元どおりになって、また皆で幸せに暮すことができるだろうと。
それからは昼も夜もございませんでした。寝食を忘れ、化け物になったりくのことをも忘れて紙にむかい、桜を写し続ける毎日でございました。すぐに絵具がなくなりました。ここで筆を止めたらおしまいです。必死に墨をすり、紙がなくなればあたり構わず筆を走らせました。ひとひらの花弁さえ写し漏らさぬようにと、目を凝らし息を詰め、書き続けたのでございます。
そうしていくうちに、手前の身体はどんどんと軽くなってまいりました。心は澄んで平らかになり、おのれと桜との距離も間近になっていくような気がいたしました。
もうすぐ、もうすぐだ。すべてを描ききれば天命は全うされ、願いは成就するのだ。
そう思うと息をする間さえ惜しく思われ、手前は一心不乱に桜を描き続けました。
ある夜、最初の一片が木から離れる音がしました。桜が散り始めたのでございます。時がようやくきたのだと悟りました。
手前は嬉しさに大声を上げて泣き出しました。散る桜の下で小躍りし、画を広げて散りゆく花弁をひとつも漏らさぬように描き続けました。
一枚、また一枚。十は百に、百は千に万にと降り吹雪、最後のひとひらが地につくまで、描き続けたのでございます。
すべてが終わった時、手前はひさしぶりに身体を丸め、静かな眠りにつくことができました。夢もないおだやかな眠りでございます。気持ちよくたゆたいながら、いつの間にか、どこへともなく漂って行ったのでございました。
それからいかばかり経ったことでしょう。
ふと気付くと、手前は桜のなかにおりました。桜は手前のなかで花を咲かせ、指の先から芽をだしておりました。みるみる若枝となって天へ伸び、驚くうちにまた花が咲きはじめました。やがて花は散り、散る花弁は私のかけらでございました。一片一片小さく砕かれて、散ってしまえば土に還り、そうしてまた私の肥やしとなっていくのです。
ある晩、私はりくの姿をかいま見ました。どういうわけか、まだあの醜い化け物の姿をしておりました。なおも大きくなった身体で手前の前に立ち、恐ろしい眼で睨んでくるのでございます。次の日もまた次の日も「りく」はまいりました。震えがくるほどの醜さに目を背けようとしましたが、まったく動くことができません。足は土に縛られ、腕は枝となって身をよじることすらできなくなっていたのでございます。
そうして、手前と「りく」との暮らしが、また始まりました。
あれからどれほどの時が経ったのでございましょう。
ある晩、美しい光が近づいてまいりました。誘われて見下ろすと、丁度貴方様が手前の下を通ったのでございました。
貴方様ならばご存じではないかと、お尋ねしたいと、ご存知のようにここへ招いたのでございます。
教えてくださいまし。手前のあのやすらかな眠りはどこへ行ったのでございましょう。手前は、ただ静かに眠りたいのでございます。夢も見ずに、ひたすら眠りたい。ここから離れ、花を忘れて、ゆっくりと泥のように眠りたい。
どうぞ教えてくださいませ。手前はいつまでここに居ればよいのでございましょう。いつまで「りく」の化け物と暮らさねばならないのでしょう。
後生でございます。どうぞ私に教えてくださいませ。
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