第五話 命果てるまで
采女は、口元に寄せた盃を膳に置いた。
「どうやら、伺ってはならぬ話を伺ったようです」
老女はゆるゆると首を振った。
「もう何十年も昔のことでございます。皆が知っている話ですから、どうぞお気づかいなく」
りくはうながし、盃に澄んだ酒を満たした。采女はそれへ目を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと云った。
「失礼ついでに、尋ねてもよろしいだろうか」
りくは、どうぞというように小首を傾げた。
「最前の桜の画とは、玄関にあった屏風のことでしょうか」
「左様でございます」
「ご亭主が桜を描いておられた座敷とういうのは」
「この座敷でございます」
りくは、にこにこと笑っている。
采女は明障子を指した。
「では、開けて頂けませぬか」」
「承知いたしました」
りくは敷居際に膝をついてそろそろと引き、反対側に回ってもう一方も引いた。
「これは、見事な」
采女の口から嘆声が上がった。
座敷の真正面に桜の大木があった。傾いた月を背に黒々と聳え、その影を白い花が覆っている。花は月光を浴びてさらに白く、その身のうちから輝くようであった。
風に乗って、座敷内へと舞い降りてきた。采女の膝元へひとひら、りくの膝元へひとひら。
二人は顔を見合わせた。どちらともなくため息のような笑みを洩らし、すると、さらに風が吹き、幾片もの花弁を座敷へと吹き寄せた。
あの枝には、人であったものがぶら下がっている。
采女の目は、もうひとつの桜を映す。
大樹は人の命を吸い取って、今年も艶やかに咲き誇っていた。
来年も、その次の年も花は咲き、妻は夫を弔い続けるのだろうか。
愛しげに桜を眺める老女の顔に、采女は冷めた酒を含んだ。
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