第四話 内儀りくが語る

 亡き夫の家は、松本城下でも指折りの生糸問屋で、夫はその跡取り息子でございました。

 先代——義理の父というお人は、大変風流なお人でございまして、茶の湯を好み、街道を行き来する文人歌人との交流も深く、そのため主人が子供の頃より、入れ代わり立ち代わり、何人もの食客が逗留していたと聞いております。

 夫はもともと夢見がちな性分だったのでございましょう。長ずるに従ってその方々より俳諧や書、画を習い、次第に没頭していったそうでございます。店のこともおぼえず、ひたすら画を描き歌を読む息子に業を煮やし、先代は心をいれかえ後をつぐか、無一文で家を出ていくかと迫ったそうでございました。

 その時夫は、嫁に迎えたい女がいる、その女が嫁に来てくれるなら店を継ぐと、そう申したそうでございます。

 その女が、私でございました。どこでどう見初めたものか、名も住居も細かく存じていたそうで、すぐさま義理の父は伝手つてをたどり、我が家を訪ねて参りました。

 来るなり玄関先に土下座して、私を嫁に欲しいと申されたのです。驚いた父はなにごとかと事情を尋ね、私に嫁ぐよう申し渡しました。

 幸い許嫁もなく、乞われるままに嫁いだのでございます。

 祝言の席で初めて会った夫は、優しい面だちの、気性もそのとおり柔らかなお人でございました。不自由のないよう幾人もの女中をつけてくれたり、まるで牡丹の花でも丹精して育てるように、私を大切にしてくれたのでございます。

 主人も人が変わったように家業に精をだし、これでお店も安泰だと、皆が喜んだ矢先でございました。

 義父が急死したのでございます。

 夫の様子が変わってまいりましたのは、それから間もなくのことでございました。番頭達にまかせておけばよいものを、ひとつひとつ目を通さねば気がすまなくなり、目を通したところでそれほど商いに通じていたわけでもございません。徐々に気鬱の病におかされて、誰にも彼にも猜疑の目をむけるようになりました。長年奉公してくれた番頭を追い出し、気にくわぬと丁稚を叩き出したりもいたしました。それを見かねた義弟が私のところへまいり、兄をしばらく養生させて欲しい、そう申したのでございます。


 翌日、私は夫と共にこの屋敷へ参りました。まだ春の浅い、庭先に雪の残る時分でございました。


 半月も経たぬうちに、主人は少しずつ落ち着いてまいりました。祝言をあげて半年あまり、これほど共に過ごしたことは初めてでございました。まるで雪がとけていくように夫の顔には安らぎが戻り、笑さえ浮かべるようになったのでございます。

 今思えば、あの日々が私共にとって一番しあわせな毎日でございました。世間と離れ、春の風にふれながらそぞろ歩き、蕗の薹を摘んだり、雪玉をぶつけたりと、まるで子供の頃に戻ったような楽しい日々を過ごしたのでございます。


 二月ふたつきほどたったある日、義弟が訪ねて参りました。丁度屋敷の桜も蕾がふくらみ、あと十日もすれば咲き始める頃合でございます。

 義弟というのは夫に輪をかけた実直な性分で、使用人の信頼も厚く夫の代わりにおたなを切り盛りしてはくれないかと、心ひそかに思っていたほどでございます。

 あきらかに夫は商いには不向きでございました。ここで過ごすうちにその思いは確かになり、近いうちに主人と相談のうえ、身代しんだいを譲れないだろうかとさえ、思っていたほどでございます。


 義弟は、店へ戻ってほしいと夫に申しました。自分は許しがあれば上方へ行き、やってみたい商いがあると、そう申したのでございます。

 是非にと頼めば、決して否とは申さなかったでしょう。しかし、夫は弟の望みを差し置いて、おのれの望みをとおせるほどの意志の強さはございませんでした。おのれがしたいことを果たせず、家業をつがねばならぬ苦しみは、夫自らがよく知っておりました。


 夫は、店へ戻ることを快く約束しました。ただ、庭先の桜が散るまで待ってほしい、散り終わるのを見届けてから店へ戻ると、そう申したのでございます。この屋敷へまいって、丁度三月目のことでございました。


 ところがその翌日から、夫はなにかに憑かれたように画を描き始めたのでございます。ほころびはじめた桜の前に陣取り、毎日朝から夕暮れまで描き続け、絵具がなくなれば墨のみで、紙がなくなれば奉書であろうと障子紙であろうと、構わず描き続けたのでございます。断ち切れぬものを断ち切ろうとする、そんな夫の姿に、私は空恐ろしいものさえ感じ始めておりました。

 このままではよくないことが起きる。止めようとも致しましたが、一心不乱に描き続ける夫の耳に私の声は届きません。私はただ、花が咲き散っていくのを、息を殺すように待つしかなかったのでございます。


 その晩は夜半より雨でございました。次第に風も吹き始め、私は夢うつつに桜が散っていくのを感じておりました。これでようやく夫の奇行もやむかもしれぬと、ほっと胸をなでおろしながら、うとうとと微睡んでいたのでございます。


 ふと気づくと、隣で寝ていた夫の姿がございません。奇妙な胸騒ぎに飛び起きて、着替えもせぬまま、いつも主人が桜を眺めていた座敷へとまいりました。

 床には大きな画が広げられ、明かりは点いたままでございました。寸前まで筆をとっていたのか、皿にはたっぷりと墨がございます。

 私は障子戸を開き、庭へ駆けおりました。

 夫はそこにおりました。

 桜の木の枝に帯をかけ、首を括っていたのでございます。


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