第三話 寡婦

 女の名はりくと云った。屋敷は松本城下にある生糸問屋の持ち物で、亡くなった亭主は先代の主人であるという。

 りくはこの屋敷にひとりで住んでいた。女中もなく、いるのは下男の利助のみであるらしい。


「では、ご亭主が亡くなられてより、ずっとひとりで住まっておられるのか」

 采女が通されたのは、奥まった座敷だった。暗い外廊下を渡り、角をいくつか曲った先にある客間のようである。丁度、風呂が湧いたからと利助に案内されて湯をつかい、座敷へ戻ってみると、酒肴が用意されていた。どうしたものかと思案しているうちに、りくが晒と軟膏を持って入ってきた。有無をいわせず足を確かめ、腫れた腓に軟膏を塗って晒で巻き上げた。

 頃合をみはからって、利助が暖めた酒を運んでくると、婆の酌でご無礼ながらと、りくは男に盃を持たせた。


「左様でございます。嫁いで間もなく夫を亡くし、しかも商家の出ではない私に、とうてい店の切り盛りは適いません。店は義理の弟夫婦に譲り、私はこの屋敷を預かっております」

「失礼ながら、お内儀は武家のお生まれか」

 りくは、懐かし気にほほ笑んだ。

「父は戸田様家中にて、二百石を頂戴しておりました」

 そしてはにかんだように、

「思えば、もう何十年も昔のことでございますよ」


 大店に武家の娘が嫁ぐのは、それほどめずらしいことではない。しかし、嫁いで間もなく夫を亡く、店も譲ったというのであれば、実家に戻って嫁ぎなおしても不自然ではなかった。りくはそれをせずに亡き夫を思い、ただひとりで暮らしてきた、というのである。

「差し支えなくば、ご亭主のことを話していただけないだろうか」

「夫のことを、でございますか」

 りくは驚いたように問い返した。

「わずか共に暮らしただけのご亭主を思って、長い歳月をひとりで過ごしてきたと申された。その亡くなったご亭主がどのような人物であったのか、不作法ながら興味がつきません」


 女は、ほ、と吐息をもらすように笑った。夜陰のせいか、灯りがついたように華やいだ空気がただよった。

「お若い方には退屈なお話でございましょう」

「是非に」

 では、と女は盃を干すよう促した。


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