第二話 一夜の宿
屋敷の門は閉じていた。男は戸を叩き、声高に住人を呼ばわった。幾度目かの訪いのあと、足音が近づいてきた。
「どなた様でございますか」
門越しの声は、若くはない男のものだった。
「旅の者だ。夜分にすまぬが、宿を頼めぬか」
一瞬、沈黙があった。
「失礼ではございますが、松本のご城下へは、ここより一刻ばかりでございます」
やんわりと断わられたものの、男は食い下がった。
「実は、足を痛めて難儀している。このような時刻に不審であろうが、あるじ殿に尋ねてみてはもらえぬか」
嘘ではない。右の腓がひどく痛む。歩けなくなったらそれでもよい、などと思っていると、養生する気にもならなかったのである。
すると、木戸がわずかに開いた。隙間から風体を改めている様子であった。
「少々お待ちくださいませ」
ぴたりと閉じると、足音は遠ざかっていった。
程なく木戸が開いた。深く腰を屈めて迎えたのは、六十絡みの老爺であった。
「先ほどはご無礼いたしました。あるじが是非にと申しております。どうぞお入りくださいませ」
いまだ警戒している様である。
「かたじけない」
木戸を潜ると、入母屋造の玄関へと敷石が並んでいた。見事な松が破風まで枝を伸ばしている。
「こちらでございます」
案内された式台に、一双の屏風があった。やはり桜だ。夜目にもわかる見事な筆づかいで、花は熟れたように咲き誇り、重みで枝をしならせながら、吹き寄せる風にかすかに身悶えしているかのようであった。
「お気に召しましたか」
驚いて、男は顔をあげた。
「当家の桜でございます」
初老の女が目の前にいた。灯りを手に屏風の影よりにじり出て、式台に立つ男へ深く一礼した。
「ご無礼いたしました。この屋のあるじにございます」
年の頃は五十半ばほど。町家の内儀のようだ。色白で額の秀でた面立ちは、さぞやと思わせる美しさを残していた。
「あるじ殿か」
「然様でございます」
女はやわらかく笑んだ。
「道中でおみ足を痛め、難儀しておられると利助が申しておりました。なにもございませんが、どうぞお上がり下さいませ」
利助とは、先刻の老爺であろう。おっとりと微笑む女に、男は愛想よく笑を返した。
「それがしは越後高田藩家中、戸田采女と申す。夜分に騒がせて申し訳ない。
云って踵を返そうとするのへ、
「どうぞお泊まりくだいませ」
女は、やんわりと引き止めた。
「女のひとり住いとは申せ、このような婆でございます。遠慮なさることはございません。それに」
と花が綻ぶように微笑した。
「身内のことではございますが、当夜は亡き夫の命日でございます。これもなにかの御縁でございましょう。どうぞお上がりくださいませ」
「法要とあればなおさら」
「花見でございます」
さらりと云って、女は手燭で奥を示した。
「この屋の桜は、夫の形見でございます。命日には夫を偲んでお客様を招くこともございましたが、最近は年のせいか億劫に。ご迷惑でございましょうが、お付き合いくださいませんか。今宵は丁度、月も明るうございます」
戸惑うような申し出であったが、采女は苦笑を浮かべて首肯した。
「では、お言葉に甘えてご相伴いたしましょう」
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