天偏の花
濱口 佳和
第一話 街道
夜分、戸田采女は北國西街道を北上していた。中山道の洗馬より入り、松本を経て篠ノ井にて合流する脇街道である。越後高田城下へ、さらにかつて今湊町と呼ばれたと地へ続く道であった。
野羽織に野袴、黒の塗笠という旅装である。腰の大小には羅紗の柄袋を被せ、旅慣れた様で歩んでいた。笠から覗く顎は細い。驚くほどの痩身である。その棒のような体躯を前屈みにし、風を笠で避けながら、精力的な、刻むような歩はこびで歩んでいた。
夜風が冷たい。いまだ残雪を吹き下ろして、思いの外刺すようだ。それでも濡れた春の香気を含み、心地よい冷たさとなって肺を満たした。
松本城下をたったのは、すでに夕闇の迫る時刻であった。それから半刻ばかり、月は天空にのぼり、皎々と周囲を照らし出している。おのれのほか、夜旅の輩はいない。城下を離れるにしたがって往来も絶え、山と山の硲をうねる街道だけが、月夜にぽっかりと浮いていた。
急ぐ旅ではなかった。そもそもあてのない旅である。人目をさけ、夜陰を徘徊する理由などないのだが、余人の居らぬ街道は静謐で、ただ歩むことのみに没頭できた。
と、目の前を白いものがよぎった。ひらひらと舞って足元に落ち、確かめる間もなくまたひとつ重なった。
頭上を仰ぐ。
桜である。
右手の切り通しから、満開の太い枝が街道へ張り出し、中空に浮かぶように咲いていた。月を背にたわわに花をつけ、ちらり、ちらりと落としている。
采女は目を細めた。さぐるような眼差しだ。それを桜へ向け、やがて口元をゆるめた。
街道をはずれ、切り通しの脇からゆるい坂道をのぼった。
登りきると、土塀があった。かつては砦でもあったのか、なかば崩れかけた石組の上に生垣を配し、
采女は大木を見上げ、笠の顎紐を解きながら、門前へと足を向けた。
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