第五話 死と触れる
帰り道。
一人になり、自分の巻き込まれた状況に整理が付き始めると、無意識に刺された当時の記憶が湧き上がってくる。
一歩歩むごとに、戻ってきた記憶たちは俺にまとわりつき、縛り上げる。鮮明に思い起こされてしまう温度、臭い、情景、そして最後の薫の表情。何度も何度もフラッシュバックし、振り切れずに想起する。何度目かわからない薫の泣き顔の後、俺は催してきた吐き気をこらえきることができなかった。
すぐに塀に手をつき、側溝の上でぶちまける。
薫だ。
ひどく怯えていた。
紅い文様。その眼は狂気に満ちていて―――
―――おそらく俺と同じだった。
彼女も俺と同じ。脆かったのだろう。何があったのかは知らないが、仕方ないことだ。そういう奴らだ。
俺らの
薫の心配なんかしている余裕はない。死止め人なんかに関わってしまったことで、余計に俺の余裕なんかあるわけなかった。使命感?なんだそれ?普段の俺なら一も二もなく切り捨てただろう。
なのになぜだ。どうしても切り捨てられない。薫に特別な感情があるわけではない……と思う。ただ、このままにしておくわけにはできなかった。看過する、という選択に、なかなかどうして踏ん切りがつかなかった。
「あ”あ”、クソッ!」
意味もなく右手で塀を殴りつける。
口の中の臭いが鼻につく。ひどく不快だ。ゆすいでしまいたい。
払えない。あの表情も。この臭いも。
もしかして………そういうことなのか?
薫を救うことで、俺はこの身に染み付いた
「バカバカしい」
そんなことしてなんになる。俺の自己満足。何の解決にもなってない。逃げ出した俺の問題はそこにあるまんまだ。一時の善行で愉悦に浸るだけだ。寧ろそのほうがクズっぽいだろうが。
そんな思考が巡っても、どんなに理屈を捏ね上げても、薫を助けたいという俺の考えが変わることはなかった。
わけのわからない使命感がある。それを受け入れられない俺がいる。気持ちが悪い。俺は何をどうしたい?
「クソッ!」
もう一度全力で殴った壁は、僅かに揺れた気がした。
*
偶然見かけた公園に駆け込み、口をゆすいだ。
きっとこの感情は付いて回る。今のうちに、俺の中で折り合いをつけなくては。今やることはひとまず南学園へ登校することだ。薫のことはその後だろう?
深く、息を吸って、吐き出す。やることが決まっているのは助かった。分不相応な使命感とは、ひとまずおさらば出来そうだ。
「それにしても、ここはどこだ?」
七姫に介抱されていたあの建物へは、意識がないまま運び込まれていた。そのまま様々な話を聞かされ混乱していたとはいえ、現在地もわからないままに飛び出してくるとは、とんだ間抜けも居たものだ。
どうしたものか。家に帰るだけなら、携帯で道を調べてもいい。しかし今後再びあの建物に向かわなければならないときの為に、目印になるようなものを覚えていたほうがいいかもしれない。……彼女に連絡するか?いや、だが、交換した連絡先が早速役立ってしまうのはどうにもな。先程のしたり顔を思い出し、嘆息する。
本当にどうしたものか。参ったように辺りを見回すと、奇妙なものを視界の端に捉えた。
「……あれはなんだ?」
公園の角に位置する大樹の影に、謎の発光体が存在している。近づいて確認してみるか。
「幻覚じゃないのか。これは……火の玉……か……?」
他には、狐火、人魂とも言うだろうか。
公園に差し込む柔らかい朝日より、もっと儚げで薄い灯り。暖かな暖色の朝日にぎりぎり飲まれない程度の青白い光を放っている。ここが木の影でなければ気づきはしなかっただろう。
まさか。
とある可能性が思い当たり、急いで辺りに視線を巡らせる。
ある。ある。ある。
そこかしこに、というほどでもないが、似たような灯火がまばらに点在している。ざっと見渡しただけでも3,4個ほどあるだろうか。一体これは何なんだ?
目の前の火の玉に集中する。
やはり幻覚ではない。あいも変わらずにその場でふよふよと浮いている。例えば視神経の以上であれば、首を回したときに視界から外れることに説明がつかない。陽炎の類なのか?しかしそれならばここまで不規則に点在するものなのか?
《
………。
いや、待て。なんでも七姫に聞かないとわからない、というのではどうしようもない。報告、連絡、相談?知ったことか。現場の判断が重要なこともある。
「……よし」
俺はおもむろに火の玉に近づいた。その距離1メートル。
火の玉は特にアクションを起こさない。
ふよふよ。
距離0.5メートル。
ふよふよ。
……0.3メートル。
ふよふよ。
浮いているだけ。
この距離だともう、手が届く。
俺は大きく深呼吸をして、強張った身体をほぐす。対象に向けて右手を伸ばしかけ、慌てて引き戻す。万が一のために利き手はやめるべきだ。
左手で、再び接触を試みる。そろりと近づけ、まずは手をかざす。火の玉と形容したが、実際のところ熱は放っていないようだ。そのまま包み込むように下へ手を回し、………すくい上げる!
「っ………!?」
かざしたときには熱を感じなかったというのに、実際に触れると澄んだ冷たさを感じた。反射的に手を引くが、どうしたことか、火の玉が消えた……?
「何が……?なっ!?」
左手に目を向けると、火の玉がくっついてしまっている。手を振り、振り落とそうとするがピタリと付いて離れない。
「ちっ……、このっ!」
乱暴に振り払っても落とせない。しばらく悪戦苦闘していたが、やがて根負けして、諦めることにした。左手を握ったり閉じたりするが、特に害はなさそうか。訝しみながらもじっと見つめていたが、特に何が起こるでもない。
もういい。今日は考えることが多すぎた。もう脳が飽和寸前だ。携帯を取り出し、おとなしく道を調べることにした。再びここを訪れるとき、その時はおとなしく七姫に連絡を取るとしよう。
それにしても不用意なことをした。いい年をして、浅はかな自分に辟易する。マップを確認しながら歩き、顔を上げて道を確認すると、路傍に浮いていた別の火の玉を蹴り飛ばしてしまった。そのまま足に引っ付く。……見えにくいんだ、これが。
もはや言葉もない。
「……帰るか」
*
公園を出てから40分あまり。道中はこれ以上火の玉に触れてしまわぬように、目を凝らして警戒していたためか、マップの予測時間を大きく上回ってしまった。時刻は6時半になろうかというところ。
まずいな。
つまり、
最悪朝食は抜きでいい。
だが登校するためにはどうしても家に帰り、制服に着替える必要がある。
意を決して玄関の扉に近づこうとしたとき、それは内側から勝手に開いた。
俺はぎょっとして、呆然と立ち尽くしているしかなかった。氷でできた
扉が完全に開ききったとき、そこに立っていたのは、俺の父親だった。目の前に俺が立っていることに一瞬瞠目するも、すぐに興味も失せたのか、焦点を俺に合わせることをやめた。
歩き出し、俺の横を通り過ぎる。
もはや嫌味の一言もなかった。
以前までは侮蔑の表情、蔑みの視線を投げかけてきたが、いまや興味すらないようだ。もし何か言われていたとしても、聞こえるような状況ではなかっただろうが。
「―――ハ――ハッ―――――ハッ―――ハッー」
一瞬の永遠が過ぎ去り、思い出したように呼吸が帰ってくる。だが、いくら吸い込んでも苦しく、乱れたリズムが定まりそうにない。紛らわせる為に、ひたすら呼吸を繰り返す。
徐々に音がもどる。視界がもどる。世界が戻ってきたのを感じると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「……このままここにいるのはマズい」
かろうじて思考が回るようになり気付く。このままでは他の二人にも出会ってしまう可能性がある。
何時間も過ぎたように思われたが、そんなに経っていなかったらしい。指などを挟まないように工夫されているのか、父が出ていった玄関の扉はまだ、閉まりきっていなかった。急いで手をかけ玄関に飛び込むと、靴を脱ぎ捨てた。そのまま玄関脇の階段を駆け上がる。本当なら静かに部屋に戻り、家主たちに俺がいることを知られたくなかったのだが、父親に出会った以上、今更それもないだろう。足音を立てるのも厭わずに登る。2階に上がるやいなや、正面の扉のノブに手をかけスルリと滑り込むように部屋に入った。
しっかりと扉を閉め、
―――スタ、スタ、スタ
まだだ。遠くなった世界に引き戻される。またも身がこわばる。聞こえてきたのは廊下を歩く音。
やがてそれは俺の部屋の前で止まったようだった。
「……ああ、兄さん。生きてたんだ」
喜色を孕んだ声。ただし俺の生存を本当に喜んでいるわけではないだろう。生きているか死んでいるかの判別もつかない俺を、嘲り、楽しんでいるのか。たった一言。そのたった一言で俺は全身が底冷えする。
―――スタ、スタ、スタ、スタ
それ以上なにか言うでもなく、足音は次第に下がっていく。
やがて足音が聞こえなくなったところで、俺は扉にもたれかかって……、崩れ落ちた。
もうダメだった。動く気力すらなかった。呼吸もひどくなる一方。酸欠なのか、頭がチカチカする。
何も考えらない。どうしようもない。逃げる手すら見当たらない。学校に行くことをやめようとさえ思う。もはやなにもしたくないのだ。
別に学校が嫌で不登校になったわけではない。拾われた命だと思い七姫に了承していたが、もう無理だった。もともとは月曜からの予定だったはずだ。今後登校出来る保証はないが、確実に今日は行けないだろう。妙な使命感などとっくにどこかへ行ってしまった。そう。そうだ。俺は自分のことだけで精一杯だ。クズの俺に他人を思いやる余裕なんてなかったのだった。
知らずに涙がこぼれていた。なんで?何に?
薫を救えないことが悲しいのか……?いや、困っている誰かを見捨てることなんかいつものことだ。
七姫との約束を反故にするからか?いや、一番ないな。
恐怖でおかしくでもなったのだろうか?………否定はできない。
いつしか心を占めていた使命感が失われたことに虚しさでも感じているのか……?
どれも違うようで、どれでもある気がしてきた。ただただ情けないのだろう。自分が。負けた気がする………というか。
久しく感じたことのなかった感情。どうしたらいいかわからなくて、俺はただ、感情のなすがままになっていた。
『ふうゎあぁ……。何事だぁ……?』
どこからか声がする。だが確認するだけの気力はない。
『全くなんだってんだ……?朝っぱらから。つーか坊ちゃん帰ってきてないんだな。っておお!?坊ちゃんなんでそんなとこいんだ?』
聞き慣れない声だ。家族以外の声がしている。おかしなことばかりだ。坊っちゃんって誰だ。………まさか俺のことか?
『状況を察するに……、さしずめ家族の誰かとエンカウントでもしたか……?災難だったなあ……。なにかオレに出来ることはないもんか?触れないし、そもそも相手に見てもらえないってんじゃなぁ』
トテトテッ、と音がした。なんというか……、昔馴染んだ音に似ている。飼っていた犬が俺のベッドから飛び降りる音。まさにそんな感じだ。事実、声の聞こえてくる高さは低くなっている。
『おお~い、坊ちゃんや~い。生きてるか~?……って、聞こえもしねえよな』
寝たきりで声かけられるシチュエーション。俺の記憶違いじゃなければ、本日二回目になるな。
「……生きてる」
『ああそうかい。なら大丈夫か……って、は?』
―――トテテッ、トテテッ、トテテッ、トテテッ。
『……まさか坊ちゃん、オレのこと視えてんのかい』
俺の視界に回り込んできたのは、懐かしい姿。
紛れもなく犬。全身が黒く、四本の足と口元だけが黄土色をした一匹のマンチェスターテリア。尤も、今目の前にいる犬は半透明の全身水色で、美しかったその色は失われてしまっているようだが。
だが、そうだ。絶対そうだ。何故か日本語を話しているが、この犬は絶対に―――
「エルマー」
うちで飼っていた犬に違いないだろう。
『おうよ、久しぶりだな坊ちゃん………っておい、大丈夫か!おい!』
もう限界だ。
*
目を覚ますと、見覚えのない天井……ではない?
俺の部屋か。そうか、そういえば帰ってきたのだったな。
あの時とは違い、さっと上体を起こして状況を確認する。
『おう、起きたか』
やはりいた。
「エル……。エルマー………」
『おう!オレだ!大丈夫そうか、坊ちゃん?』
「あ、ああ………」
嬉しそうに返事を返してくる。尻尾もちぎれんばかりに往復していた。また会えるなんて………。だが、久しぶりすぎて言葉が出てこない。そもそもなんで会話できているんだ?それにお前は。お前は、三年も前に
「エルマー。お前、どうしてここに……?」
「……オレはずっとここに居たよ。寧ろオレに質問させてくれ。坊っちゃんこそ、どうして突然オレのことを、
そうか。幽霊。そうだよな、エルマーは確かに死んだはずだ。俺はエルが息を引き取る瞬間に立ち会っていたのだから。ここ半日で俺の生死感は大きく揺らいでいるが、今回ばかりは《死止め人》の奇跡も介在し得ない。
いや、違うな。《
「エル。これも霊だったりするか?」
左手に付き纏う火の玉を指差す。
「お?ああ、たしかにソイツは低位霊だけど。ってオイ!!取り憑かれて………いる……わけじゃないのか?んん………?」
回り込みながら首を傾げるエルマー。
どう考えても《
いや、エルマーも今は幽霊だ。常識外れはお互い様か。正直に切り出すことにする。
「実は、今日、臨死体験をしてな」
『臨死体験!?』
「ああ、それで紅い目をした奴らに拾われたんだ」
『待て!!!』
今までより幾分緊迫した、鋭いエルマーの声。その瞳はじっと俺を捉え、心の奥底まで見透かそうとするようだ。
『まさか、生かされたのか……?紅の目をした人種の、眷属として』
《死止め人》や《半死人》のことを知っているのか?
すぐに答えることができないでいると、無言を肯定ととったのか、エルマーが嘆息する。
『やっぱりか。そっか、《赤目》の一員か。なら、オレが視えるようになったのは、《
「なあ、エルマー。俺は拾われたんだ。死にそうになった命を、《死止め人》に拾われた。それってそんなに悪いことなのか?」
『……。まあ、命を拾ったことに関しては良かったと思う。けどな、《赤目》たちってのは、周りを傷つけないと生きていけないんだろ。そんな命運に巻き込まれてしまったってんなら、素直に喜んでやることはできねぇよ』
これが正常な反応なのだろう。
エルマーの言っていることも理解は出来る。とはいえ、俺がここにいるのはその《赤目》のおかげだ。一定の恩がある以上、七姫たちには感謝している。いくらエルマーの言葉だとしても、彼女らに協力する気は揺らがない。
「彼女たちのおかげで、俺達はこうして再開できた」
『……だな』
エルマーはそう吐き捨てると、地面に伏せた。
『それにしたってフクザツだぜ……』
完全には納得しきっていない様子だが、これ以上言及するつもりもないらしい。
それにしても妙な感覚だ。死んだはずの愛犬と再開したことのについてもそうだが、こうして言葉を交わしている。おまけに《死止め人》や《半死人》に関する知識もあるようだ。なんとなく心からエルマーだと信じ切ることができず、座りが悪い。
『それで、どうすんだ?』
前足だけを立て、エルマーは俺をじっと見据える。
「どうって……」
『……オレはさ、秀。ずっとここにいたんだ。ずっといたんだよ。お前が段々と頑張れなくなっていくさまを、ずっと見ていた。声も届かず、触れることもできず、ただただ擦り切れていく秀の姿を、張り裂けそうな想いでただ、見ていた。《赤目》になったって事はさ、よくも悪くも危ない目に巻き込まれることになるはずだ。立ち止まる暇もなくなって、今よりもっと辛くて悲しい想いをするかもしれない。それでも、《赤目》として生きていく、その覚悟があるのかよ、秀』
これは優しさだ。エルマーは多分、俺が強くはないことを知っている。俺よりももっと、俺の弱さに詳しいかもしれない。傷つくことに、傷つけることに、そのときになって及び腰になってしまわないように、覚悟の真価を問うている。
俺は目を反らしてはいけない。消えていたはずの使命感が、俺の中でしっくりと収まったのを感じる。
「俺はあの日、お前が死んだあの日から、支えを失って、生きる意味を無くした。過ぎ去っていく時間の中で、意味もなく日々を過ごした。それは生きていたとは言わない。『死んでいなかった』だけ。今日、本当に死にかけて初めて、はっきりと思い知らされた。だからやるよ、エルマー。やってみたい。俺は初めて、そう思ってる」
『たとえそれが、他人を踏みにじることになるとしても?』
「苦しい結末が待っていても、今度はくじけずに、虚勢張ってでも立ち続ける」
『………そうかい』
エルマーは首を小さく頷かせると、立ち上がり、その場で2度回った。嬉しそうにしっぽを振りながら笑う。
『しっかたねえなぁ。坊っちゃんは甘ちゃんだから、監督役として、またオレが支えてやるよ。そんでもっていつか、成仏するときには、しゃんと立てるようになっていてくれよ?そうじゃないとまた、安心して逝くことができなくなっちまうからなぁ』
懐かしいな。くるりと回って付いてくる。紛れもない、コイツはあのエルマーだ。苦しいとき、辛いとき、いつでも隣で支えてくれるんだ。
不思議だな。父と会ってしまってから、もう立ち上がれないと思っていたのに、今は何でもできそうな気がする。エルマーが居てくれるなら。
そしていつの日か、エルマーが逝くときが来たのなら―――
「約束する。俺はお前を、安心して成仏させてやる」
俺は必ず生き直すと決めた。
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