第二話 死と出会う

フンフフンフフ~ン♪


 私は今、すごく機嫌がいい。先方がこちらの要求を有無も言わず飲んでくれたからだ。


「全く、いつもこうならいいんスけどね~…」


 まあ、一般人相手の仕事であれば、最終的に行き着く結果は同じなのだが。

 誰でも私の言うことを聞かざるを得ない。ちょっとだけ事がスムーズに行えた。ただそれだけの話だ。


「でもね七姫、小さなことに喜びを得られるっていうのは素晴らしいことよ……ッス」


 懐かしい言葉をつぶやいてみる。


 生前、母上が耳にタコができるくらいおっしゃっていた言葉だ。母と会わなくなって久しいが、一言ひとこと語りかけるような母の話し方を、私は今でも覚えている。


 ……ん?いや、母上は亡くなってなんかいないッスよ?会おうと思えばいつでも会いに行けるッス。ただぁ~……今会っちゃうと相当驚かれるだろうッスけど。

 生前っていうのは私の話ッス。私、死んでるッスから。


 まあともかく。


 私は路地裏を歩いている。ほとんど人通りがない道ベスト10(私セレクト)に入る、お気に入りの道だ。


 フンフフンフフ~ン♪


 鼻歌を歌いながらよたよたと進んでいく。

先日降った雨の水たまりがところどころに存在する。が、機嫌がいい私はわざと水を跳ね飛ばすように大きく行進。ちゃぷちゃぷと音を奏でる水たまり。ああ、楽しい♪


「あれ?前に雨が降ったのって三日くらい前じゃなかったッスかね?まだ水たまりが残ってるんスか?―――ハッ!この道は日陰!故に乾きが悪いって事ッスか!!なんと!路地裏の中の路地裏ッスね!路地裏オブ路地裏!……全く、お前ってやつは!すごいすごいとはおもってたッスけどここまでとは!やばいッス!イケメンッス!愛してるッs―――うわっ!」


 不意に目の前の曲がり角から急に女の人が現れる。私を突き飛ばし、無言のまま逃走。私は見事に尻餅を着き、水に濡れる。うう~~、くたびれきっていたけど「まだまだ着れるッスよね……」と誤魔化しごまかし着続けていたお気に入りのフード付きコートがっ!!


「つーか待ってください。え。もしかしてさっきまでの独り言聞かれてたッスか?え。え。なにそれハズい。うぅあ。死ねる。もう一回死ねるッス!なんでさっきまであんなに上機嫌に独り言してたッスか自分の馬鹿!」


 ううううう!

 無駄に饒舌だったし!


 何が『人通りのない道ベスト10(私セレクト)』だ!『路地裏オブ路地裏』だ!『愛してる』だ!人通るじゃん!普通に通るじゃん!きっと私の独り言が聞かれたのだってこの路地裏のせいだ!そうに決まってる!お前なんか全然愛してないッスよこの馬鹿路地!!


「はぁ」


 ひとまず悶えるのはやめにして立ち上がる。それにしてもさっきの女の人、何を慌てていたのだろう。私はどう見ても外見的には小中学生。こんな通りで見かけたら、いい大人は注意くらいして行くと思うのだが。


 ふと鼻につく新しい匂い。独特のカビ臭さや雨上がりの匂いに混じる、この匂い。


「血?」


 眉間に突き刺さるようなこの鉄臭さはそう。紛れもない血の匂いだ。女の人から漂っていたのか?それとも女の人が曲がり角の先の匂いを引き連れてきたのか?


「さてはて……。答えはこの先に……ッス」


 女の人が飛び出てきた曲がり角。血の匂いをたどりながら進んでいくと、どんどん道が狭くなっていく。


「何かあるならそろそろッスかね」


 まあ、段々と濃密になるこの匂いで、何かあるのは確定しているようなものだけど。


 あたりをつけた突き当たりで、ひょいと顔だけで覗き込む。


「あれ、行き止まり……って。うわぁ…」


 視覚情報より一拍遅れてやってきた匂いに閉口する。むせ返るような新しい血の匂い。


「んっん~。ということは。どうやら七姫、殺人現場に遭遇してしまったようッスね~」


 やっぱり犯人はあの女の人かな。

 思えばあの人、目に赤い文様が浮かんでいた気がする。


「となればやることは一つッスね~。仕事の基本。報・連・相!」


 明らかに110番とは違う番号をダイヤルしながら、私―――新熊にいぐま七姫ななきは考えていた。


 え、この路地二人も人いたんだけど、と。


 ……ああ違う違う。なんだかきな臭いことになってきたぞ、と。



   *



 見慣れない天井。だがまあ、いつものことだ。

 

 最後に外で寝た記憶はないが…。酒でも入れていたか?酒があったとしても記憶がないとは珍しい。酒に飲まれることは少ないからな。


 上体を起こそうとする。しかしどうしたことかうまく体が起こせない。そもそも体が動かない。どうすればいいんだ?金縛り……というわけでもない。変な話かもしれないが、言うなれば、体の動かし方を知らない赤子になった気分だ。


「……どういうことだ」

「ん、ああ。起きたッスか。ちょっと待っててくださいッス」


 右の方から声がした。結局体を起こす事は諦め、首だけ回す。だが声の主は見ることができなかった。レースのカーテンが視界を遮っているのだ。


 ホテルではない。カーテンはあるが病院でも無いようだ。根拠は、先ほどの声が上から降ってきたから。体を起こすことに失敗しているので直接見たわけではないが、カーテンに写る人影から判断するに、俺が今横になっているのは布団だろう。……声の主が2メートルを優に超える巨人でもない限り。


「おはようございますッス~」


 カーテンを開けて傍らに座ったのは、少女。


 ウェーブがかった淡いベージュの長い髪。ひどく華奢な体。そしてなにより目を引くのが、まるで生まれてこの方一度も紫外線を浴びたことがないと言っても信じられるほど、病的なまでに白い肌。それら全てが相まって、人形のような印象を持たせる。特徴的な嫌に明るい話し方がなければ、不気味、よく言えば神秘的すぎて恐怖すら覚えるだろう。


「あ、えっと、その、そんなジロジロ見ないでもらえるッスか?お兄さんなかなかのイケてるメンズですけど、ちょーーーっと好みじゃないんで。特にその腐りきったような目とか。あ、あとそのドブでも啜ったかのような表情とか」

「……俺も子供には興味ないな」


 性格には別の意味で戦慄した。


「なーんかノリ悪いっすねー。顔も良かったし、年もいい感じだし、今回の後輩はアタリかなって思ってたのに、残念ッス」

「悪かったな」


 何なんだコイツは。

こんな不可解な状況だが、疑念より不快が勝っている。この女の琴線に触れるもの言い、ある意味才能ではないだろうか。


「ん~。まあいいッス。それより、体、動かせますか?」

「いや……。どういうわけか、首から下が全く動けない」

「ま、そッスよねー。ああ、一応言わせてもらうッスけど、別に七姫がなにかしたとかじゃないッスから。単純にお兄さんの体の問題ッス。寧ろ七姫はお兄さんの命の恩人なんッスよ~」


 そう言いながら、静かに枕元にお茶が置かれる。


「粗茶ですがどうぞ」


 ……。


「あ、体動かせないんスよね!あちゃー、まったく、お茶・・目さんッスね~七姫ったらもう!」


 てへっ、と舌を出す少女。


「………」

「あ、あれぇ?ホント、ノリ悪いッスね~、もう」

「………」


 言葉もない。訳のわからない状況に放り出されて、かつ訳のわからない奴に振り回され続ける状況にただただ頭が痛かった。もはや不快感通り過ぎて殺意に近い。


 何よりふざけた言動とは対照的に、こちらを見る視線が刺すような眼光で、身体的な年齢感とのアンバランスに薄ら寒い恐怖をも感じさせる。

 《楽しげ》を装う異質な何か。それが彼女を表すには的確だろうか。


「そんなことより。先程、命の恩人とか言ったか?」

「ええ、うん、そうスね。じゃあ話を進めるッスか。お兄さんいじり甲斐なさそうッスから」


 本当にいちいち癪に障る物言いだ。どういう教育をうけているのか。


もそもそと女は居住まいを正す。今度こそ真面目に状況を説明してくれるようだ。少し安心した。


「聞かせてくれ。この状況を」

「そうッスね」


 女は俺の目を正面から見据え、静かに口を開く。


「じゃあまあ一番肝心でわかりやすいところから言わせてもらうッス。……誠に残念ながら、お兄さんは今日、数時間前に刺されて命を落とされたッス」

「………命を落とした?」

「ですから、駅の近くで血溜まりに倒れているお兄さんを、この七姫ちゃんが見つけてあげたって訳ッス」

「俺が……死んだ………」


 まぶたを閉じ、気を失った経緯を思い浮かべようとする。しかし記憶には靄がかかっていて、何一つ判然としない。


「……思い出せそうッスか?」

「……いや。駄目だな。気を失う直前だけじゃない。ここ最近の記憶の時系列がうまく判断できない」

「おそらく身体と同じでまだ適応しきれてないんスよ。死んだときのショック状態もありますし、無理に思い出そうとすると、整理がつかなくて余計混乱するッス」

「そうか」


 なるほど。身体のほうが微塵も動かせないのと同様、頭の方もはっきりと目覚めきっていないのか。思い出そうとするほど、ピンぼけした最近の記憶が現れては消えて、混ざっていく。

 今は自力で思い出すことはできないだろう。とりあえず、女の言葉を理解することに努めることとする。


「そうか。死んだか。……とするとここは黄泉の国か何かなのか」

「い…、や…。違うッスけど……。ごめんなさい、一つ聞いてもいいッスか」

「待て。質問しているのは俺だろう」

「や、や、や。そうッスけど!なんで……?いや!七姫の話を真面目に聞く気あるッスか?」

「俺が聞いた問いの答えだろう?少なくとも最後まで話を聞くつもりだが」


 女は明らかに狼狽えた様子で目を見張る。なんだというのか。


「なにか不満でも?」

「まあ不満といえば不満ッスよ!いきなり『あなたは死にました』って言われてそんなすんなり受け止められるッスか!?普通驚くなり疑うなり悲しむなりして騒ぎ立てるもんじゃないッスかね!?だから七姫ってば、どんな反応するのかな、はーあどうやって説得したもんかなと期待半分気だるさ半分で話切り出したんッスよ!なのにまあスッと受け止めちゃってまあ!お兄さんホントつまんないったらないッスよねぇ!!」


 後半のくだりについてはまあ、興味ないが。確かに普通なら、あなたは死にましたと言われればそれなりに拒否反応は出るのかもしれないな。

 ……しかしそれは、生きていたい人間の道理だろう。俺は別にどうでもよかった。生きることに、意味も、意義も、そして意志すらなかった。そう。ただ生きていた。生まれてしまったから、生きていただけ。命と言う名の財産を持っていて、それは簡単に手放すのが惜しいと思ったから持ち続けていた。失ってしまったというのならそれまで。きっとそこに、俺は嘆くような価値なんて感じていなかったのだろうと、今、気がついた。


 まあこれは俺の価値観だ。この女に説明してやるようなこともない。


「……そうだな。なら言わせてもらうが。正直聞くだけ聞こうと思っただけで、内容については話半分にしか聞いてない。そもそもお前は自ら命の恩人を名乗っていただろう?黄泉の国でもないらしい。とどのつまり『死んだ』というのは言葉の綾で、俺は死にかけたが一命を取り留めたと考えていいんだろう?」

「ええ、ええ、そうッスね。………やっぱりつまんないお兄さんッスね!!」


 女はうなだれ、乱暴に数度頷くと、足を崩した。


「それにしたって落ち着きすぎッスよ。普通もっと思うところがあるべきッス!文字通り一世一代の大問題ッスよ!ものわかりが悪くて当然なんッス!」

「なぜお前のほうが騒いでるんだ」

「お兄さんのリアクションが理不尽だからッスよ!!全く!」


 しばし釈然としない様子でぶつくさ言っていた女だったが、やがてこちらに向き直り、開口する。


「降参ッス。ハイハイ七姫の負けッスよ。はたから見れば、冷静でつまんないお兄さんの言う通りかもッスね!!―――でも、」


そして静かに。ささやくように続ける。


「―――事はそう簡単な話ではないんスよ?」


 京楽の仮面を脱ぎ捨てた少女の、射すくめるような冷たい視線。

 俺はここに来て彼女の不気味さを思い出した。身の危険を感じるというような直情的な恐怖ではない。それは足先から這い上がり、身体の芯を蝕んでいくような毒性。害意は感じない。理解が及ばない美しさに直面したとき、人は今の俺と似たような感情を抱くのではないだろうか。


「お兄さんの言うことは概ね当たりッス。ただまあ、申し訳ないッスけど、七姫たちは『怪我を治した』わけじゃあないんスよ」


 考えてみれば、現状はあまりにも奇妙すぎた。


 この女の言うことをすべて事実だと仮定する。俺は、数時間前に刺されたわけだ。しかしどうだろう。俺は今、なんの変哲もない布団の上で寝かされているだけ。医用機器ひとつ見当たらない。自分の身体に関してはまだ動かせないので確かなことは言えないが、そもそもの外傷はどこにある?痛みも違和感もない。死にかけた程の人間の処置にしては、なんともお粗末な待遇だった。


「もっと正しく表現するなら、そうッスね。命を救ったというのも嘘になるのかもしれないッス。落ちていた死にかけの人間の命を、七姫たちの所有物として拾った、つまりネコババしてきて動くようにしただけに過ぎないッスかねー」

「……お前は、一体―――?」



 少女はただ、ほのかに笑う。


 それは今までの冷たい視線よりも雄弁に、残酷さを想わせる笑みだった。



「そういえば、お互い自己紹介がまだだったッスよね。教えて下さい、お兄さんのお名前は?」

「……俺、は。俺の名前は、日宮ひのみやしゅうだ」

「日宮さん。日宮さんッスね。覚えたッス」



 少女は噛みしめるようにゆっくり瞑目する。



 そして、再び目を開けた時。



「私の名前は、新熊にいぐま七姫ななきッス」



 その瞳には、いつか、どこかで見た紅い文様が浮かんでいた。



「死人の世界へようこそ、日宮さん。歓迎するッス」




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