死止め人《デスキーパー》

小日向 日向

第一章 そして始まる死の物語

第一話 死を迎える



―――ピリリッ、ピリリッ


 申し訳なさそうに、申し訳程度の音を鳴らす目覚まし時計。表記されたデジタルの時刻はAM9:48。電波時計なので本来は正確であるはずだ。が、こいつは違う。壊れ、正しい時間を表記しなくなってから久しい。実時間はおそらく11時少しってところだろう。


―――ピリリッ、ピリリッ


 この時計の音は朝の訪れへの感謝を微塵も感じさせない。だから俺はこの目覚ましを捨てられないのだろう。同族への愛着。正しい時間を把握する必要もない。必要がないから、壊れてもそのまま放置される。


 仕方なく体を起こす。おそらく一般には遅いであろう朝の訪れ。だがしかし、俺にとってはいつもどおりの朝。


 何を考えるでもなく、ただいつもどおり階下のリビングへむかう。一昨日買っておいた無味無臭の6枚切れの食パンを1枚、無理やり口に押し込みながら、テレビをつける。放送されているのは地元テレビ局のワイドショー。ローカルでどうでもいいニュースしか扱わない。司会者はいつも笑っている。何がそんなに可笑しいのか。よくやる、と誰に言うでもなくひとりごちる。こうみれば司会者のほうがおかしく、滑稽に思えた。世論への批評中に話を遮られたコメンテイターに、少し同情も覚えた。


 本当に、こんな世界の何が可笑しいのか。


 誰もいない大きな家。住人はいる。ただ、時間的に誰もいないだけだ。だが俺にはまるで捨てられたように思えた。………家が?

 ……捨てられたのはほかでもない俺自身だった。


 質素な朝食を終えると俺は服を脱ぎ、投げ捨てた。


 11:17。いい時間だ。


 濃い藍色のジーンズを履き、灰色で薄手のVネックシャツを一枚。高級ブランドのネックレス。黒のカーディガン。


 洗面所へ向かう。乱れた髪を適当に直し、軽く口を濯いで俺は家を後にした。



 *



 駅西口前の公園。別名裏駅。その割と開放的な広間のベンチに俺は腰掛けていた。反対側の東口とは違い、こちらは治安が悪い。クズのたまり場と化している。


 平日の11時半。そろそろ昼時ではあるが、まだ本格的には人が集まりきらない時間帯。だというのに、ここには人気ひとけが多い。社会不適合者とでもいうのだろうか、基本的には金髪などのチャラチャラした奴が多いが、社会に疲れきった、悲壮感漂う中年もチラホラと見受けられる。


 時折駅からやむなくこちら側を通らなくてはならないサラリーマンどもが、カバンで顔を隠し、戦々恐々としながら抜けていく。ご苦労なことだ。噴水付近で溜まっていたサングラスのガラの悪い連中が品定めするように睨めつけている。グラサンのせいで正確な視線はわからないが、おそらくお眼鏡にかなったのだろう、口の端がにやりと笑ったのがみえた……ご苦労なことだ。

 

 昼時。サラリーマンあれはいい獲物になるだろう。俺もそろそろ獲物を釣るとするか。

 俺は前傾になり、両膝の上に肘を置いた。この体勢はこの公園では合図になる。釣りの開始だ。たしか17時からは予約が入っていたはずだが、13時までに釣れればもうひとり行けるだろう。


「ちょっとそこのお兄さん。もしかして売ってます~?」


 釣れた。


 俯いていた俺は、簡単にひとり釣れたことに思わず吹き出しそうになりつつも、顔を上げながら営業スマイルに切り替える。相手はキツイ化粧をした軽そうな女。なら俺は、軽薄な男を演じよう。


「ええ、売ってますよ。一本3です」


 完璧な営業スマイル、だが。返事がない。聞いているのだろうか?


「あの、大丈夫?」

「え、あっ、あの、あっ、はい」


 俺が聞き返したことで、やっと返事が帰ってきた。それにしても、俺に話しかけて来たときの調子に乗った感じはどこへ行った?随分緊張している。また吹き出しそうになる。

 

「あのっ、3…ですか?お兄さんが?30の間違いじゃなくて?」


 3だと言っているだろ。カモ相手にそんな口は聞かないが。


「え~。そんなに取りませんよ~。オレなんかじゃ3でもいいほうだって」

「そんなことない、そんなことない!お兄さん超イケメンだし!3なんかじゃ安すぎ!30でも安いよ!マジやばい!」

「そんなにいらないよ。一本3。どう?」

「3、3本買います!」


 なかなかの反応だ。買いも3。上客だな。


「毎度。んじゃま俺の行きつけのホテルがあるんだけど……。あ~、やめとく?ほら、もしかしたら俺の仲間がいて~的なことがあるかもだし、さ?」

「だっ、大丈夫!お兄さんに付いてく!」


 そう言って腕を絡めてくる。


「おっけ。行こうか」


 そのまま俺らは西口公園をでて、俺の行きつけのホテルに向かった。



 *



 「はぁ……」


 俺は惰性で買った、旨味もわからないタバコの紫煙をくゆらせていた。ベッドの上。隣には一糸纏わぬ女がすやすやと寝息をたてている。一糸纏わぬ姿であるのは俺も同じか。


 クズだ。こいつも俺も。こいつがなんでそうなったのか、その事情は知らない。重い理由かもしれないし、そうではないかもしれない。だが、俺らはクズだ。等しくクズ。社会という大きな集団に馴染めず、つまはじきにされて、傷ついた個人。だからこそ、肌を重ね合わせ、傷を癒す。……いや、別に肌を重ね合わせなくともいいのだ。ただ、最弱の個である俺たちは、自然と集まり、群れて、傷を舐めあう。


 その結果が裏駅だ。西口だ。あそこは居心地がいい。誰も彼もが等しくクズ。なんの気兼ねもいらない。あそこなら、俺らはつまはじきものではなくなるのだから。それに、におい。社会の歯車たちは全員が無臭だ。だから逆にそれが鼻につく・・・・・・・・・。クズにはクズの「臭い」がある。普段は自分にしか感じない臭いが、裏口では気にならない。


 もちろんこんなのは逃げだ。ただの現実逃避だ。嘘の楽園だ。だが俺らは抜け出せなくなる。一度ハマったら抜け出せない。そういう風にできていない。そもそも抜け出せるような奴はクズにはならない。

 ……そういった意味ではコイツと一緒だな。手元のタバコを見る。そのままタバコを灰皿に押し付け、捨てて、もう一度女を見やる。


 こいつ。メイクがこてこてで、ぱっと見では年齢がわからなかったが、実際に抱いてみると感じた、相当に若い。まだこっち側ひかげにきたばかりなのだろうか。

 まあいい。人並み以下の俺がどうこうできる話じゃない。自分のことすら抱えきれない俺が関わっていいことじゃない。手を伸ばしたら、共倒れ。他人の怪我など、所詮他人事だ。


 この世界の、何が可笑しいのか。


 おかしい。確かにおかしい。狂っている。


 だが何が可笑しい?何が笑える?自分に染み付いた臭いを嫌悪し、怯え、それでも俺たちは生きている。クズはクズなりに。こんな若い女までが這いつくばって生きている。逃避だ。群れるのも、肌を重ねたのも逃避だ。しかし必死に。全力に。壊れきってしまわぬように、絶妙のバランスで、生きることを選んでいるのだ。


 一体誰が俺らを笑えようか?

 

「はぁ……」


 今度は煙なしにそう一息ついた。


 事後だからだろうか。しばらく変なことを考えてしまった。

 壁の時計を見るとそろそろ15時になろうかというときだった。少し気だるいが、無理矢理にでも体を起こし、シャワーへ向かう。17時に予約が入っているのだ、そろそろ動かなくては。


 シャワーを浴びる。人肌のお湯。


 先ほどの思考がまだ頭の中でくすぶっていた。


 堕ちた事情……、か。


 俺が堕ちた事情……。何とはなしに思い出す。おそらく、よくある話だ。なんてことはない日常の話だ。ただ少し、俺が脆かった、、、それだけの話だ。


 堕ちた始まり。あの時の選択。それ自体に後悔なんてない。未練なんてない。そんなもの、もはや枯れ果ててしまった。



―――ああ。でも……



 馬鹿な思考を追い出すように、俺はシャワーの水温を思いっきり冷たくした。



 *



 シャワーから上がる。備え付けのバスローブを着ようかと一瞬迷ったが、すぐにここを出るのだ、元の服にした。


 バスタオルで雑に髪を拭きながら、ベッド脇の小さな丸テーブルに近づく。女はまだ寝ている。…なれていないのだろうか。そうでなくても俺の経験上、女が遅く起きるのは常なので、あらかじめテーブルに代金を置いてもらっていた。枚数確認のため手を伸ばす、と、テーブルの下の女のカバンから財布が落ちそうになっていた。戻してやろうとして、目に入る。


 それは、学生証だった。

 

 俺は年齢を確認しない。そのための、この行きつけのホテルだ。だが。だがどうにも――!!

 


 俺はそっと学生証を直し、財布もしっかり奥に入れてやると、改めて枚数を確認した。しっかり9枚。


 一枚だけ、テーブルに残してやる。この部屋の料金で半分と、残り半分は今後への投資だ。と、ここまで返して、こいつは経験が少なそうだから、こんなルールは通じないかもしれないと思い返す。


 どうだろう。釣った感覚、食いつきは良かった。どうにか今後も俺を買ってはくれないだろうか。

 本来、俺らは同族嫌悪はしない。そんな余裕のある奴はいない。が、クズを食い物にする真性のクズもいる。俺ならそんな心配はなく、ただ傷だけを癒してやれるが……。

 

 適当な紙に携帯の連絡先だけ書いておいて、一緒にテーブルに置いた。まあ、今後のことまでは面倒見切れない。自分のことで手一杯だ。クズの常識ルール、こっちはこの女も理解しているだろう。


 ささやかに、この女がこれ以上誰かの食い物にされないことを祈りつつ、


「毎度。今後もご贔屓に」


とだけ言い残し、俺は部屋を後にした。



 *



 16:32。昼と同じ裏駅のベンチで俺は腕を組んで座っていた。これも合図の一つ。予約済みである証明。待ち合わせの相手は常連なので合図なしでも俺に気づくだろうが、周りの別の女に声をかけられないための抑止でもある。


 「お待たせ~。待った~?」


 そう言いながら手を振って歩いてくる女性。


 赤いドレスに身を包む妙齢の女性だ。正直に言えば年齢の割にきつい色、趣味だと思うが、それでも彼女は年の割に若く見えるのだ。俺から年齢を聞くことはないが、お喋りな彼女は自分から年を言ってきたことがある。あの時は驚いたものだ。


「いや。かおるこそ、まだ約束の時間には早いが?」

「ふふ、一秒でも早く私に会いたくてウズウズしてるんじゃないかなーと思って」

「ない」

「え~。つれないな~」


 そう言ってぶぅ垂れる薫。彼女は俺がこの仕事を始めた半年前からの常連だ。そのため、俺は彼女には素で接している。いつだったか、彼女に言われた言葉がある。


「そっちのほうが自然でいいや、作り笑いなんていらないよ。そっちのほうがわたしたちクズらしいでしょ。……まあ、君は無表情に過ぎると思うけどね」


あのとき、あの言葉をもらったときから、俺は彼女に対して自分を偽ることを辞めた。


 

「いつものところか?」

「んー。そうなんだけど、さ。折角予定より早く集まったんだし、ちょっと回り道していかない?」

「……別料金だが」

「え~!取るの~!」


 フフフ、と笑いながら薫が腕を組んでくる。


「今日はやけに上機嫌だな」

「えへへ~。そりゃね、超絶イケメンの若い男子を侍らせてたらね~。ん、こっちね」


 俺は、そんな彼女のエスコートに、なされるがまま、引っ張られて行くことにした。



 *



「おい、ここでいいのか?」

「うん。近道なんだ。狭いから先に言ってくれる?」


 おかしい。付き合えというからには買い物か何かだと思っていたのに、ここは薄暗い、ビルとビルの間の細道だ。エアコンの室外機がところどころに点在し、余計に道を狭く見せる。近道?20分も歩かされた挙句、よくわからない道に案内されている。目的地を聞いても曖昧に濁し、どこへ目指しているのか皆目検討がつかない。


 だが、薫だ。万が一はありえない。そう思いたい。俺はとりあえず、薫の案内に無言で付き従った。


「そこ、道なりに曲がってね」


 後ろから薫の声がする。みれば目の前は突き当たりになっていて、かろうじて右に曲がれるようだ。そのまま曲がる、と……。


「おい薫、この先は―――」


 行き止まりだぞ。


 振り向きざまの俺の言葉は、最後まで言い終わることはなかった。


「ッ―――、カハッ―――!か、薫――――?」


 熱が走るような痛み。対象的なヒヤリとした異物感に目を向ける。

 俺の右脇腹。そこから包丁が生えていた。その柄を握っているのは薫の手で……、手で―――


「ごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねあああああぁぁあぁぁあああ!!」

「好きだよ好きなんだよすきすき好き好きスキスキスキすキシュウクン好キダアァァい好き!」

「悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない。悪いのは秀君だよキミキミキミキミキミキミキミキミ!ぜぇんぶ私の物じゃないから!キミの全部が私のものじゃないからああああぁああぁぁぁあああぁぁぁああ!!!」


「か………お、る………」


 聞きたいことは山ほどある。言いたいことも山ほどある。だが口から溢れてくるのはおびただしい量の血とかすれた息だけ。何が、なんで、どうして―――



――どうしてそんな怯えた顔をしているの?



 地面に崩れ落ちた体を無理に寝返らせて仰向けになる。


 薫は尋常じゃないほど震えている。自制が効かなくなったのか、足元に包丁を取り落とした。空いた手で自分の肩を抱いた。


 目に、紅い文様が浮かんでいる―――。


「わt氏はわたしはわたわたわたし死ししし死んだわたしは死んだ死んでしまった先に先よ先先サアキさっき!」

「一緒、これで一緒しょしょ所々しょしょしょひ」

「いひヒヒヒあはははっははははははははあはははっははははっはあははははははははは!」


 それだけ言い残して、薫は走り去っていく。待って、止まれ、話を……っ!俺は走り去って行った薫に向かって精一杯手を伸ばしたが、薫に届くことはなかった。



 走馬灯だろうか。俺は自分の人生を振り返っていた。


 幼少期。

 幼稚園。

 小学生。

 思えばもうすでにここで間違いがあったのか。人生の、運命の歯車が音を立てて狂い始める。

 中学生。

 高校……は、行ってない。


 ははは。思えばつまらない人生だった。


 こうしていちから振り返って見ても、いいことなんて一つもないじゃないか。


 人生を大きく狂わせたのは、ほかでもない自分自身。あの場の選択。



 後悔なんてない。未練なんてない。そんなもの、もはや枯れ果ててしまった。


―――ああ。でも……、ひどく喉が渇いている。




 そう思っても、口の中には、大量の血の味しかしなかった。




 こうして俺、日宮ひのみや しゅうの人生は幕を閉じた。


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