第10話 思考占有

 勇者の転生者は、なぜか苦痛に喘いでいた。

 手はわなわなと震え、目は血走り、息も滞り、悲痛なるに彼女の肉体は襲われていた。

 なぜ己がこのような仕打ちを受けるのか?

 心外ながら勇者の転生者には、多大なる心当たりがあった。つい先ほどの事だ。

 それは、不用意に中身を大して精査せず、額面通りの印象に従って苦痛の源を手中にしてしまったのだ。

 迂闊うかつ、と悔いる勇者の転生者。

 だが彼女は、勇者としての、否、人の子の躾を受けた久住朋子としての矜持から、に対してくじけることを許さなかった。

「……無理しなくていいぞ」

「…別に無理してないですもん」

 眼前に相対す宿敵が、心配そうな様子で囁いて来る。

 しかし勇者の転生者にはそれがあざけりの様にも感じられ、

 魔王にも負けるわけにはいかない! と、対抗心を燃やし、無理矢理、決意を新たにした。

 そうだ、これはある意味、七つの大罪が一つ“暴食”。この苦痛は罰そのモノなのだ。

 ……勇者としても朋子としてもこれに堪えなければならない…。

「食えないなら残せって」

「…うぅ、そんなもったいない事しません!」

 京王多摩川駅商店街にある中華料理屋“台南飯店”に直人と朋子が入店し、数十分が経過していた。

 直人は、慣れたものと台南飯店の食事量に難なく対応し全てを平らげていた。

 しかし朋子の方は見た目通りの小食で、一応性根にまで染みついた『ご飯は残しちゃいけません』の躾を健気に実行しようと小さい口でモグモグと頑張ってはいたのだが、台南飯店の物量攻撃の前に、未だ半分以上残った魯肉飯ルーロウファン相手に、心が玉砕されそうであった。

 魯肉飯ルーロウファン

 台湾の食堂にならどこにでもある庶民料理。日本の牛丼みたいなポジションの料理である。

 ただ台南飯店のポリシーによりボリュームは牛丼の特盛なみ。それでいてワンコインでお釣りが来るリーズナブルさ。

 直人始め、この店に来る多摩高生には大人気の料理であった。

「それ味濃ゆいし量も半端ないんだから、正直食い切れないだろ? ハーフチャーハンくらいにしとけばよかったのに」

 呆れ気味に呟く直人。

「……注文した後に言わないで下さい」

 朋子は、自分で連れてきておいて気を利かせてくれなかった彼に、ムスッと苦言を呈した。

 この店の料理は日本人向けの味付けの様で、朋子の口にも合い確かに美味しかった。

 だが量が半端ではない。カロリーも相当のようで後も怖い。

 朋子はいろんな意味で、苦痛のあまり顔が歪んだ。

 一方の直人は、朋子のそんな様子に若干の気まずさを覚えた。

 …思えば、常連とはいえこんな大衆料理屋然とした店に、寄りにも拠って初デー……じゃないけど、女の子を誘うべきではなかったかも知れない。まだ誘うなら、どこかのファーストフード店の方が良かったのでは?

 如何いかんせん、この店の味がお気に入りだったため、朋子も気に入るだろうと軽く考えたのは不味かったようだ。正直、そんな顔をしながらご飯を食べられるのはなぁ。

 直人が少しばかり後悔していると、とうとう朋子の箸が止まった。

 限界のようであった。

「………大丈夫か?」

「……」

 直人の問いかけに返事を返せない朋子。見ると若干涙目で、悔しそうな顔をしていた。

 ……そんな切羽詰んなくても。

 直人はため息を一つ付くと、半ば強引に魯肉飯ルーロウファンの器を朋子から取り上げ、再び箸を手にとった。

「あっ! なんですか!」

「……残り俺が喰うよ」

「えっ?」

 突然の彼の行動に驚く朋子。あっけに取られている様子。

 直人とて、既に腹は一杯ではあったが、朋子がこうも食いあぐねるのであれば、誘った手前、手を貸すべきだろうと思ったのだ。

 それに、少しは彼女にいいとこを見せたいし………いやいやいや! そう言うつもり全くねえし!

 本音と建て前を交差させ、再び箸を手に取る直人。

 そして、朋子がその口にいれた食べ物を自分の口に入れる。

 ……………って待て。

 すぐに箸が止まる。

 女の子が口に付けた物を食べるって、

 …これ、いいとこ見せるどころか、デリカシー欠ける行為じゃねえか?

 思春期的発想で一瞬、まずったと青くなる。

 そして朋子の反応が気になり、ふと顔を上げた。

 するとそこにはキョトンした朋子の顔。

「…た、食べれるんですか? 大丈夫なんですか? さっきまで胃が痛かったんでしょ?」

 と、驚き気味で心配そうに尋ねられる。

 どうも彼女自身はそういったことを全く気にしていないようである。

 ふと、室内なのに残冬の侘しさを感じる思春期魔王の転生者。……まぁ、別にいいですけど。

「……残すの嫌なんだろ? なんかもう食えなさそうだったし、それなら俺が片づけるよ。この料理好きだし」

 少し言い訳がましくなる直人。本当のところはかなり胃がきつかったが。

 それから直人は、男に二言は、の意地で何とか魯肉飯ルーロウファンを完食し、「見た目に拠らず大食いなんですねと」と朋子を驚かせる。内心少し気分が良かった。

 そして出された中国茶を飲み胃を落ち着かせていると、張さんが今度は「多摩高入学祝いのサービスだよ」と厚意でデザートでライチゼリーを持って来てくれる。……っく、第二波か。

 一応、張さんに祝われた立場の直人ではあったが、デザートに関しては、満腹過ぎて、正直、食べる気が起きなかった。

  しかし朋子は、その水々しく季節外れの涼しさをかもしているライチゼリーに、一瞬目を輝かせた。

  が、すぐ躊躇ちゅうちょして、うぅ、とか唸ってる。

「……いいから食えば? 別腹なんだろ、そういうの?」と直人。

「……なんですかその決めつけ?」

 朋子はあまりデリカシーの感じられない直人の言葉に、憮然ぶぜんと眉を結ぶ。

 実は朋子は気にしていた。

 確かに胃は限界ながらも、失せたはずの食欲が再び湧き上がっていた。

 だが、残った料理を彼に食べてもらった手前、デザートが出た途端にはしゃぎ喜んで食べてしまうのは気が引けたのだ。

「……もしかしてそんだけ食って、今さらカロリーとか気にしてんの?」

 彼女の心情をくみ取らず、またいらん事を口走る直人。

 朋子はカチンと来てしまう。

「……な!? 今さらってなんですか!? そもそもこんな大食いのお店に、蘇我くんが連れて来たんでしょ!?」

「まぁ……そうだけど」

 失敬だったか、と肩を竦める直人。

 朋子は仏頂面気味で、進まないながらもそのままデザートスプーンを手にる。と、

「ああっ!」と、何かに気付きテーブルに手をつく。

「…また唐突になんだよ」

「あ、あなたの魂胆が分かりました! なんで私なんかを、ご飯に誘ったのか疑問でしたけど……合点が行きました!」

 そう言って、推理で犯人を追いつめた探偵の如く、魔王をビシッと指差す勇者。

 直人は、何度目かの嫌な予感を感じながら、一応、その気付いた魂胆とやらを尋ねてみる。

「…その心は?」

「勇者である私を太らせて成敗しようとしたんでしょ!」

 意味不明であった。

 なんだその遠回りは。生活習慣病で勇者を倒そうって俺は考えていたのか?

 と直人は、そんな迷宮で迷いまくって早とちり感満載の勇者の結論にゲンナリすると、

「よくぞ見破った。勇者よ」

 と、推理を認めた。

「やはり!」

「んなワケねえだろ! 太らせて成敗って家畜扱いかよ」

「っ! 今度は豚扱いですかっ!?」

「してねえ!」

「おのれ…魔王めっ…! こんな美味しい料理で私をおとしめようとはっ!」

 朋子がなんか突っ走り始めたことに溜息をつく直人。

 かぶりを振りながら「違うから」と呟くと、手振りで周囲を見るよう促し、

「だから店内で叫ぶな!」と一喝した。

 その言葉に朋子はハタっと気づき、周囲を一瞥いちべつすると、他の客の注目を集めてしまっていた。

 と、

「美味しい料理ってありがとうね。…その勇者ちゃん?」

 うふふ、と張さんがカウンターから、笑いながら感謝を述べる。

 途端、また耳まで真っ赤になってしまう。大人しく座り直す朋子。 

「もういいからデザート食えよ」

 直人が呆れながらそう促すと、朋子は若干むすっとしながら、大人しくデザートに手をつける。

 瞬間、口の中に拡がったその爽やかな味わいに、んん、と声が漏れ、強張っていた頬が綻んでしまう。

 直人はそんな彼女の、意外とハッキリしていた喜怒哀楽に少し驚く。そして自分のライチゼリーに手を付けた。すると彼口の中にも爽やかな味わいが拡がった。

 ふと片目で彼女の様子を探ると、笑顔でライチゼリーをパクパクと口に運んでいる。

 …そんないい顔できるんだな。

 気付けば、初めて見た朋子の笑顔だった。

 *****

 それからデザートを完食すると、お互いの料理の会計を済ませ二人して店内を出る。

 帰り際、張さんが「また二人で来なよ」と笑顔で言って来たが、朋子は困った顔で「わかりました…」と頷いていた。どうやら朋子は社交辞令というものが苦手な様であった。

 張さんがそれに苦笑っていたのが直人の印象に残る。

 外に出ると日はとうに落ちていた。

 四月の調布の街はまだ肌寒く、冷たい風も駅前へと吹きすさむ。この人通りのまばらな京多摩商店街のわびしさに拍車を掛けていた。

 この場で別れるのもあれだったので、流れで朋子を駅まで送ることにする直人。朋子もそれに遠慮を示すこともなく、台南飯店から駅改札まで徒歩2分足らずの距離を、微妙に空間が空きながら並んで駅に向かう。

 お互い胃が重たかったので、のそのそっと言った感じの足取りで。

「…今日はごちそうさまでしたっ」

 不意に、若干ふて腐れ気味に礼を言ってくる朋子。

「いやまぁ、別に。おごった訳じゃないしな」

「そうですけど、食事に誘ってくれたんですから、…一応」

 食事に誘う。

 別に下心があった訳ではないが、そのフレーズになんともむずがゆくなる直人。

「今度は普通のお店に誘って下さい」

 と、微妙にツンツン気味に追言ついげんしてくる朋子。

「へいへい、今度はまとも…」

 直人は、自分の行きつけの店を、彼女がお気に召さなかった事が若干残念に思えた。……って?!

 一瞬、今の追言の意味にハッとなる。

 え? また誘っていいの?

 朋子の言葉に驚いた直人は、チラッと横目に様子を伺ったが、まだ微妙につんつんしたままだった。

 どうも、深い意味もなく、ただ思ったことを素直に吐いただけのようだった。

「……ったく」と若干歯がゆさを感じる。

「? どうしたんですか?」

「別になんでもないよ」

「……本当ですか?」

 そう言って、ジト目で小首を傾げる朋子。

「なんでもないからっ」

 直人は己の一喜一憂を悟られまいと朋子から視線を逸らす。

 そうこう微妙な空気している間に、高架下にある京王多摩川駅改札へと辿り着いた。

 ふと朋子は肩から掛けている鞄からpasmo定期を取り出し、またしょい直した。

 定期を握り締め、これから改札を抜けるという仕草。

 それは、相手に、さよならと言ってお互い家路に着く場面。

 直人と朋子は、ここでお別れのようであった。

 しかし二人は、進んで動くでもなくなんとなく立ち止り、京多摩駅改札口の前にたたずんだ。

「……」

「……」

 ふと直人は感じた。

 とてつもなく、名残惜しいものを。

 …それじゃあ、また明日。

 その言葉が出ない。言えない。

 朋子の方はうついており表情が見えずに居た。今、この場面を彼女はどう思っているのか、直人はものすごく気になった。

 と、その時、

「それじゃあ…」

 彼女は振り返らずに一歩出て、唇だけをそう動かした。

「あのさ! 気になってることがあるんだけど!」

「はい?」

 何か取り繕う様に言葉を紡いでしまった直人。

 朋子はそれに、キョトンっと首を傾げ彼を見る。純粋に驚いている顔で。

「かっ…」

「か?」

 しかし直人は言葉が続かない。なんと言えばいいのか、この後なんと言えばいいのか!?

 と、若干パニックになってしまう。

 だが、このまま今日を終わらせたくなかった彼は、朋子を引き留めるために必死に言葉をひねり出した。

「お前、他の勇者一行どうすんの!? 探すの!?」

 二人して唖然となる。

 目を見開いてしまう朋子を傍目はために直人は、…一体俺は何を言っているんだ?と顔を引き攣らせてしまう。

 やばい、あまりいい予感がしない。

「あああああっーーーーー!」 

「やかましいぃー!」

 案の定、朋子は駅前の人目をはばらず雄叫びを上げてしまう。

 他の勇者一行がこちらの世界へ転生している可能性は、魔王の転生者である直人には無視できな問題である。

 何しろ敵が増えるのだ。

 指摘したのは確かに敵側である自分からではあったが、朋子が台南飯店の大盛り料理に気を取られ、失念したことをいい事に、そのまま有耶無耶にしておこうと思っていたのが、場を取りつくろうがために思わず再指摘してしまった。

 めんどくさくなりそうなので、今日はその話題に触れるつもりはなかったのだが…。

 一方の朋子は、己の浅はかさを悔いていた。

 自分が勇者の転生者であることに気づいてからも、彼女らを気に掛けることもなく、あまつさえ宿敵である魔王と共に食事をしてしまい、すっかり失念してしまうとは。

 …自分はなんと無慈悲で愚かなのか。

 そう思い拳を握りしめ決意を新たにする朋子。

 ……早く、皆を探し出さなければ!

「まおっ!…、くん!」

「えっ?」

「な、なおとくんです!」

 朋子は危うく魔王と叫びそうなるが、衆人環視という事を僅かながらに気にし咄嗟とっさにくん付けた。

 そんな朋子の突然の、蘇我くんから直人くんへ呼び名変更に戸惑う直人。

「な、なんだよ藪から棒に」

「そんなことより、直人くん! 今の私独りでは魔王に太刀打ちできないかも知れません。…だけど! 他の皆が入ればその力を借りて、私はあなたともっと戦うことができます!」

「…あのさ、俺はどっちかというとハト派なんだけど」

 魔王の転生者は、基本的に無益な争い好まない平和主義者である。

 しかし、捻くれた皮肉屋だったので、話を遠回りにしてしまう癖があった。なので、

「ハト? なんですか? 私はどっちかと言うとイヌ派です」

 と、超直情傾向の勇者の転生者とは話が噛み合わず、こんがらがるのであった。

「…じゃなくて!」

 今回は、さすがに勇者の転生者が、話を軌道修正する。

「勇者一行を再集結させ、そしてもう一度、皆を率いてあなたに戦いを挑みます! いいですか!?」

 人目を憚らず、そんなに広くない改札前で大仰に立ちはだかる朋子。

 魔王に対し、改めて宣戦を布告した。

 自身に満ちる彼女のその姿は、まさに異世界地球テラの勇者そのものであった。

「却下します」

「なんでですか!?」

 と、出鼻を挫く魔王。勢いつまづく勇者。

「……当り前だろ。なんで敵を増やすことに同意しなきゃならん」

「そ、そうかも知れませんけど、…でも! 直人くんに私を止めることはできません! 仲間の絆を得た勇者は天下無敵なんです!! 絶対に皆を探し出して見せます」

 そう言って朋子は、憤然と胸を張る。

 直人はそんな彼女の控えめな胸を、別の意味で注視してしまうが、すぐにかぶりを振り溜息を付いた。

 そして、

「……まず学校で友達作れよ」

 朋子の痛いところも突いてやった。

 その言葉に、うっとなり肩を落としてしまう勇者の転生者。

「…そもそもどうやって、他の勇者御一行様を探し出すんだよ」

「そ、それは」

 朋子が実際に、蘇我直人が魔王の転生者であると気付けたのも、彼自身が自己紹介の時に自ら独白したからである。具体的に魔力を感知したとか魂の波動があったとか、そんな特殊な方法で魔王に気付いた訳ではない。

 直人の方も、今までの彼女の反応からそのことに気付いていた。

「あの自己紹介があったから、俺のことも気付けたんだろう?」

「……そうです」

「…だったらさその勇者一行も、自らカミングアウトしてくれなきゃ見分けが付かないんじゃないの?」

 魔王の転生者の指摘に、言葉を詰まらせる勇者の転生者。

 しかし負けじと、その対策をすぐに思い付く。

「じゃあ…私が勇者の転生者です! と、先にカミングアウトして回ります! そうすれば向うが見つけてくれます!」


 あ、あの…わ、私は異世界地球テラの勇者エルフィン、なんですが…、あ、あなたは私の仲間ですかっ!?


 と顔を真っ赤にしながらおずおずと、道行く人に尋ねて行く朋子。

 そんな光景が直人の脳裏に浮かび、逆に変な友達ができるだろ、と項垂うなだれる。

 積極的なのか消極的なのかよくわからない策だが、そんなことをすれば朋子が白い目で見られ、ともすれば危険な目にあう可能性も出て来てしまう。

「……恥ずかしがり屋のお前に、そんな色々と危ない真似できんの?」

 それが出来るのであれば、ある意味、真の勇者だと認めなくはないが。

「……………すいません。やっぱり無理です」

 策を練った本人は、彼と同じ想像をしてしまったのか、すぐに潔く無理だと認め、シュンとなってしまう。

「……で、でも、少なくとも勇者と魔王はこの世界に、しかもお互い調布に転生しているんですよ? だったら他の皆も近くで転生している筈です」

 勇者一行が転生していることだけは間違いないと、それだけは譲れない勇者の転生者。

 俺生まれは八王子なんだけど、と魔王の転生者は自分の本籍地が調布でない事を彼女に言おうかと思ったが、今はどうでもいい事とすぐにやめる。代わりにある可能性も示唆した。

「あのさ、お仲間が本当にこっちの世界に転生していると仮定してもさ、調布とは限らないだろ? 外国に転生している可能性だってあるし、そもそも人間に転生していないかも知れないし」

 直人はそう言った後も、転生者であることを隠していたら? 転生していても前世の記憶がなかったら? もう死んでいたら? などなど、勇者の希望を否定するかの如く、後ろ向きの可能性ばかり羅列する。

「……もう! ああ言えば、こう言う! 屁理屈魔王め! 私の邪魔をする気か!?」

 もう聞きたくない!っと子供が駄々をねるように両耳をふさいでしまう勇者の転生者。

 あーもう、と魔王の転生者が天を仰ぐと、京多摩駅の高架天井が視界一杯に拡がった。

「……勇者の邪魔をするのは魔王のライフワークだ。…じゃなくてさ、…結局俺が言いたいのは」

 ふと視線でさとすように朋子を見据える直人。

「勇者とか魔王とか関係なく、普通の日本人として残りの人生を過ごせってこと」

「…え?」

 キョトンとなる勇者の転生者。

 彼女は、直人が魔王の転生者とのたまっているくせに、普段は割かし普通の日本人の様に振舞っているのを度々目撃していた。

 だがそれはあくまで、世界滅亡の野望の為のフェイクだと思い込んでいたのだが、こうもハッキリ彼の口から“普通の日本人として”と言われると何か釈然としない気分になる。

「なんで魔王が、異世界地球テラの者が、そんなことを言うんですか…」

「だって俺今、普通の日本人だもん」

 皮肉っぽく、あっけらかんにのたまう魔王ギガソルドの転生者。

 前世で魔王が行った残虐な行為を知る勇者の転生者は、彼のその若干ふざけた態度に憤りを感じたが、その彼は彼女の態度を気付いているのかいないのか、まだ淡々と続けた。

「…前世が何者であろうと今は関係ない。お互いただの一調布市民なんだよ。魔法が使える訳でもないし、超人的な力も持ってる訳でもない、普通の人間。朝起きればダルいし夜は眠くなるし。コンビニで週刊誌のマンガの続き立読みしたいし、飯だって美味いものを喰いたい」

「……」

「日本人としても法は守んなきゃいけないし、税金だってそのうち払わなきゃいけなくなる。それに俺たちは普通の高校生だし、……来週にはいきなり実力考査あるだろ?」

 ハッと顔面蒼白となる朋子。すっかりそのことは抜け落ちていた。

 直人は彼女の顔色を読み取り、はぁ…と溜息を付いた。

「勇者が今為すべきことは、魔王と戦うことじゃなくて普通に過ごすこと。しいて言うなら来週のテストと戦わなければならない」

 二言もなく断言するクラス委員の蘇我直人。

「多分、……私には勝てません」

「諦めんの早っ。…おそらく中学の時の復習みたいな感じだろうから、そんな難しくないと思うぞ?」

 さも当然のように直人はそう言ったが、朋子はバツを悪くするように下をうつむいてしまい、

「………魔王のくせに先生みたいなことを言う」と力なく呟く。

 そんな勇者の追い詰められた様子に、直人は頬をポリポリと掻き困った顔。

「……とにかく戦いとか勇者一行とか一度置いといて、来週に向け、学生らしく勉学に励め。以上、魔王様の有り難いお言葉終わり」

 腕を組みワザとらしく、満足した様子を見せつける直人。

「…ちっとも有り難くないです」

 朋子は不機嫌にそう吐き捨てると、重い足取りでスタスタと改札に向かい定期をかざした。

 直人は不意に名残惜しさに襲われるもすぐにそれを飲み込み、改札を挟む朋子の背に声を掛ける。

「それじゃ、ちゃんと試験勉強しとけよ。勇者様っ」

 嫌味気味にそう捨て台詞を吐いた。

 すると勇者の背が、一瞬、ぷるぷると震えたかと思うと、朋子は振り向きざまぷんぷんさせた小顔で、

「んもうっ! 今は直人くんのことで頭が一杯なんだから、勉強に身が入る訳ないじゃないですかっ!」

 怒り心頭にそう叫ぶ。

 さよならっ! っと暴言気味に追伸して改札の向うへと消えて行った。

「……」

 独り改札前に取り残される直人。

 まるで石化魔法にかかったように固まってしまっていた。

 ……今、あいつはなんて言った?

 ……俺の事で頭が一杯?

 ……それって、こ、こい

「ふべらっ!?」

 直人は気が付くと自らの腹を拳で殴っていた。

 己の脳裏に浮かんだ大型の淡水魚でない方の“こい”の二文字に悶絶し、小っ恥ずかしさのあまり思わず自傷行為を働いてしまった。満腹状態の腹部に。それも思いっ切り。

 別の意味で“こい”が滝登って来そうになるが、口を塞いで龍に変化するのは辛うじて防ぐ。

 はぁ、はぁ、と息を整え、一旦もう一度、朋子の言葉を考える。そしてすぐに悟った。

 …あれは、ただの朋子の“思わせ”なのだ。現にそのせいで彼女に何回か肩すかしを食らっている。

 朋子が“自分の事で頭が一杯”と言ったのは、終生のライバル的な意味で、なのだ。

 上杉謙信と武田信玄とか、サイヤ王子と地球育ちとか、花道と楓とか…的なあれだ。BL要素は皆無の方だ。

 わかっているわかっている、と平然を装う直人。

 と、ふと何か生暖かい視線を感じた。

 その先を確認すると、駅の柱の下に座り込みワンカップ焼酎とスポーツ新聞を片手にしている冴えない風貌のオッサンが、なぜかこちらをじーっと見つめてた。

 ……な、なにか? と若干ひるむ直人。

 するとオッサンは無精ひげをニコリと微笑ませ、おもむろにサムズアップする。

「いいねぇ、若いの。青春してんなぁ!」

 交番は近くにあるが、物騒にも未成年の殺傷事件を起こしたくなる魔王の転生者。なんかデジャブった。

 直人はオッサンをガン無視すると、足早に家路に着いた。

 歩いて自宅に向かう最中、脳裏に切っては湧いて出る朋子の事を振り払いながら、今日は家に帰って来ている筈の母に向け、制服をボロボロにした件なんて言い訳しようか…、と無理矢理考えるのであった。

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