第1話 魔王再臨
カーテンの隙間越しに、光が差し込む仄暗い和室。そこに布団が二組敷いてある。
片方は綺麗に折りたたまれており、それを利用していたであろう人物の姿は既に見当らない。
しかし、もう一つの布団の方はまだ、こんもりと盛り上がっていて誰かが寝息を立てている。
ピピピピピ、
と、突然耳障りな電子アラーム音が和室内に鳴り響いた。
すると、片方の布団の中から、細い右手が伸び出てきた。
その右手は音の元へ向いスイッチを触りアラームを止める。
そのままそれを持ち上げた。
AM7:30
デジタル目覚まし時計にはそう表示してある。
それを布団の中の双眸が確認すると、むくりと体を起し、
「ふぁ~あぁ~」
と大きな欠伸を一つ。ついで、
「…だる」
と、眠気眼で悪態一つ。
黒目黒髪のボサボサ頭の少年。同世代の平均的体格で日本のどこにでもいそうな男子である。ただし人より低血圧。小学校の時、校長先生の長話に貧血を起して倒れたことがあった。
それはさておき、彼は先日、調布市立調布第三中学校を卒業したばかりである。そして昨日、東京都調布市にある都立多摩川高等学校普通科に入学したばかりの高校一年生であった。
入学式と事前説明とクラスメートの顔合わせ程度だった前日と違い、今日は、一応授業も始まる実質的登校初日である。
普通の子なら色んな緊張を感じていると思うのだが、彼の場合、基本ものぐさだが物怖じしない性格であったため、特に緊張の欠片も感じていなかった。
その彼は、けだるい感じで起き上がり洗面所へと向かう。それから用を足して顔を洗い、キッチンに向かうと、そこのテーブルにはラップが掛けられているベーコンエッグ、サラダなどの朝食が置かれていた。
直人の母が作り置きしていたものだった。
と、なにかメーッセージカードも置かれている。
『今日から華の高校生! 一学期初日、頑張れ直人! 母より』
それは既に出勤していた母からの、息子の直人へ向けた励ましの言葉だった。
その文字の横には (>□<)b! と言う風な感じの、母のデフォルメ風の自画像も描いてある。
いい年こいて、と母には感謝しつつも苦笑いを浮かべる直人。
それからトースターで食パンを焼き牛乳を冷蔵庫から取り出してから、朝食をボソボソと食べ始める。
ぼけーっと独りご飯を食べ何気なくTVを見ていたが、ふと時計を見るといつの間にか八時前になっている。
「げ、やべ」
と直人は少々焦りながら、登校の身支度を始めた。
ここから学校まで徒歩十分とは言え、昨日の話では、ホームルームは八時半からだが初日時間厳守のため、八時二十分までには教室へいなければならない。さすがに初日から遅刻は不味い。
直人は三分で登校準備を整えると、和室にある姿見の前に立った。
都立多摩川高校の制服は学ラン。本格的に着たのは昨日の入学式の時だけだが、どうやら母が既にアイロン当てていたらしく、皺ひとつなくピシッとなっている。
そこまでしなくていいのに、と直人は母のおせっかいにむず痒くなりながらも、鞄を持ち玄関を出て鍵を閉めガンガンと階段を駆け下り、一路、多摩川高校へ駆け足で向かう。
そこは多摩川沿い近くの古いアパート、寿荘二〇一号室。近くには老舗映画会社の撮影所がある。
2DK六世帯の格安物件。ただ内部はリフォームされていて見た目ほどに中は寂れていない。
蘇我一家は数年前までは三多摩地区に一戸建住宅を持っていたが、とある理由
から家を売り払い今は母子二人でこのアパートに住んでいた 東京都立多摩川高等学校。
東京都調布市多摩川6丁目に所在し、敷地のすぐ隣には別の大手映画会社の撮影所があり最寄駅は京王多摩川駅。
清廉、誠実、清楚を校訓とし、人として清らかな人物を育て上げるのをモットーとしている…らしい。
創立30年の割かし若い学校で、規模としてはそんなに大きい学校ではなく一学年六クラス。普通科のみだが、偏差値はそこそこらしい。
一応名門大学には、数える程だが毎年合格者を出しているらしい。
直人は、そんな…らしいだらけの、これから母校となる多摩川高校のうろ覚えのあらましを思い出しながら、校門に立っていた教頭と生活指導っぽい先生(名前はまだ分からない)に軽く会釈し、いそいそと門を
そして少し迷いかけながらも、これから高校一年間を過ごすであろう1年1組の教室に辿りつく。気付けば時刻は八時一八分であった。
直人が、危なかった、と焦りながら教室を見渡すと、何人か談笑に耽っている。それに多少見たことのある顔がちらほら。彼と同じ中学からの入学者が結構いるようであった。
直人はとりあえず、男女混合五十音順で決められていた自分の席へ向かう。
と、自分の席の右隣に、なぜか俯いている黒い長髪の女生徒の姿があった。
直人は「ちょっと、すんません」と、言いながらその女生徒の椅子の後ろを通るが、
「あっ…」と、その女生徒は小さく漏らすだけだった。
直人はその呟きを眼中にも入れず、のそっと自分の席に座り「ふー」と息を漏らした。と、
「…おはよう」
けだるげな声で前の席に座る男子生徒が挨拶してくる。
直人も低血圧から少し仏頂面気味で、
「おはよう」
とその生徒に同じように返す。
目の前に座っていたのは、
「まさかまた同じクラスになるとはな」
明人が渋々と言った表情で言ってくる。
「…不満か?」
「いや、そういうワケじゃないけどさ。……高校三年間くらいは真面目にやろうな?」
と明人は、なにか釘を刺すような言い回し。
直人は、明人が言外に何を言わんや、とすることがすぐに理解できたが、
「………善処する」
と曖昧に返すだけで済ました。
「おまえなぁ」
明人は直人の適当な相槌に渋面を結ぶが、その時教室の扉がガラガラと音を立てた。
「はーい、みんなおはよう! 席について頂戴!」
そう明朗溌剌な声を上げ教室に入ってきたのは、見た目うら若い女性教諭、
彼女は、かなり背が高めで、整った小顔におしゃれな眼鏡をかけた、
正直、多感な時期の男子には目の毒なスタイルではあったが、彼女はそんなことを知ってか知らずか、目に見えてバイタリティ溢れるオーラを放っていた。
彼女が今年一年間、直人たちのクラス一年一組の担任となる人物だ。
彼女は教壇に上がり、クラスの皆が席にちゃんと席に着いたことを確認すると、うんと頷く。
「では、今から新学期初日、皆にとっては高校生活最初のホームルームを始めます。起立の号令は最初は私がやりますが、この後に決めるクラス委員に今後やってもらいます。…それでは、起立!」
千夏の号令に、バッっと一斉に立ち上がる生徒たち。
「気を付け!」
一斉に姿勢を正す生徒たち。
「礼!」
一斉に千夏に向かって礼をする生徒たち。
「着席!」
そして、一斉に席に座る生徒たち。途端に、緊張の糸が切れたように思い思いにだらけ出す。
そんな風景に和歌月千夏は苦笑を漏らし、そしてすぐにキリッと表情を締める。
都立多摩川高校一年一組の一学期初日、つまり蘇我直人の高校生活のスタートである。
まずは担任である千夏先生が今日の日程を簡単に説明し、この学校の注意事項などを説明する。そして「とりあえずは」と彼女が端を発し、クラスメートたちの自己紹介タイムが始まった。
最初に和歌月千夏が見本にと黒板に自分の名前を書き自己紹介をする。
それは名前、出身校、自分の夢などのありきたりだがオーソドックスな紹介で、2,3分程度で終わる。調子のいい生徒に、「歳は?」と突っ込まれるものの、それに和歌月千夏は無言の笑みを返すだけであった。
それから五十音の席順に、次々と拙く自己紹介をしていく生徒たち。気が付けば、直人の発表順は既に前席の添田明人の番になっていた。
「……と言うワケで、将来は実家の畳屋を継ぐつもりです。以上!」
「はい、ありがとう」
千夏先生の声をきっかけに席に座る明人。と、すぐに背後へ振り返り直人へ視線を向ける。
(変な事言うんじゃないぞ)
明人は目でそう言っていた。
その視線を受けた張本人である直人は首を捻り、うんと唸る。
……さて、何を言おうか?
「じゃあ次の子、お願い」
千夏先生の声が凛と響く。
「……はい」
と、直人は徐(おもむろ)に立ちあがるとふと教室内を見回す。
当然クラスメートたちのほぼ全員が直人に注目していたが、何人かが「あぁ…」と言う顔。その生徒たちはもれなく直人と同じ中学出身者だった。
それを確認した直人は、ウズウズ、となにか悪い虫が這い回るのを感じた。
「……えー」
そう言って取りあえずポリポリと頬を掻く。
不意に右隣の女生徒と目が合うが、その女生徒はビクッとなって視線をまた机に戻した。…なんだこの子、と思う直人。
そして皆の視線を感じる。…ふと彼の奥底から得も知れない衝動が湧き上がってきた。
それは、本能、本質、根本、と言えるもの。
なんでもいい、それとないもの。
直人の今まで人生を全て形づくっていたもの。
それが、直人の心を訴えていた。
……いいや、言っちまおう。
その衝動に忠実に従うことを決心した直人は、その途端に机の上に駆け上がり、居丈高に腕を組んだ。
そして、独白する。
「我が名は、蘇我直人! 偉大なる多摩の名を冠する大河の畔にて、居を構える大和民族が一人! だが…それは世を忍ぶ偽りの姿…。我の真の正体、それはこの世界の平行宇宙にある
カチン、と多摩川高校一年一組の教室が凍りつく。
担任の和歌月千夏教諭を始め直人のことを知らないクラスメートたちは、直人の言った通り括目…目を点にさせており、中学時代の直人のことを知っていた何人かの生徒と添田明人は、「あー、また始まった」と項垂れていた。
直人の妄言はまだ続く。
「転生者である我は、平行宇宙の
邪悪な笑い声が、多摩川高校一年教室棟に鳴り響いた。
「静かにしなさい」
と、怒気の籠もる和歌月千夏の声が、唖然としていた教室に響く。
「ははははは! ……何?」
「黙りなさい」
「何故だ? まだ我の高尚なる話は…」
「黙れっての!!」
額に青筋を浮かせ、厳しく言い募る和歌月千夏。
そのあからさまに怒気をはらんだその顔に、直人は、あっ、やりすぎた、と少し後悔を覚えた。
「………取りあえず、机から降りなさい」
抑揚のない低い怒気声で、和歌月千夏は直人に指図する。
「…………………はい」
意外にヘタレである直人は、威勢の付かない格好ですごすごと机から降りた。
すると和歌月千夏は直人にツカツカと歩み寄り、
バンッ!
と、突然、手元の教員日報で直人の頭を叩いてしまう。
「痛って! ……先生いきなり体罰すっか!? 教育委員会に駆け込みま」
「お黙り!」
ドンッ、と机に手を置く和歌月千夏。直人は少しビクッとなる。
「…あのね。別にウケを狙ってふざけるのは全然構わないわよ? 初めての自己紹介だもの。クラスのみんなに自分を印象づけたい気持ちは分からなくはないわよ。……でもね、先生が一番腹が立ったのはね。……机!」
そう言って直人の机をビシッと指差す和歌月千夏。
「……机が何か…」
「なんで机の上に乗ったの!?」
…………なんとなく。
と、直人は口を突いて出そうなるが、火に油なのは明白だったので、
「…高いところから見下ろすのが好きなので」
と火にナフサを注いだ。
「はぁあ!?」
結構美人な和歌月千夏の顔が、思いっきり歪む。
あ…、しまった。
と冷や汗を流す直人。
「いい!? この机はね、あなたがこれから一年間、この学校で勉強する机なの。おそらく誰よりも何よりもお世話になるものなの! それを足蹴にするって何様なの!?」
「魔王様だ!」
和歌月千夏のメデゥーサの睨み。
「…………………すいません」
担任の末恐ろしい眼力に、縮こまる直人。
「…………………たかが学校の備品だからって、物を大事にしないなんて絶対許さないわよ。…もし彫刻刀なんかで文字でも彫ってみなさいっ……!」
あなたが何人(なんぴと)であろうと、ぶち殺す!
と、直人の耳に幻聴が届く。
それに自称魔王の転生者は背筋にサーッと冷や汗を流してしまった。
「……いいわね」
「……」
「返事は!?」
「………はい。気を付けます」
直人のその返事に、怒りの表情を崩さなかった和歌月千夏だが、これ以上ホームルームの時間を使うのは得策でないと判断し、無言でまた教壇に戻って行く。と、
「あの…」と直人がおずおずと手を上げる。
「何?」とそれに怪訝に返す和歌月千夏。
「俺の前世が魔王で、世界を滅ぼそうとしているってのは、怒らないんですか?」
「………………あなたそれ本気で言ってるの?」
「あー、千夏先生」
と、添田明人が横やりを入れてくる。
「俺、こいつと中学三年間一緒だったんですけど、直人の中ではずっとそういうキャラ設定なんですよ。普段は割かし真面目なんですけど、こういう発表の場とかウケ狙えそうな場になると空気読まずに魔王キガソルドが蘇るんです。でも害は特にないから聞き流していいですよ?」
「お、おい明人。聞き流せとは何事か? 世界の危機だぞ!?」
「あーもう、俺は委員長みたいなツッコミ役じゃねえから」
同じ中学出身の男子二人のやりとりに、さらに怪訝な顔をする和歌月千夏。委員長というのは、多分中学のクラスメートの渾名だろう、と予想する。
と、彼女の脳裏にとある病の名が浮かんだ。
「……あなた、中二病なの?」
美人台無しの顰め面で病状を尋ねる和歌月千夏。
「そうっすよ。しかも度を越えた、オープン中二病」
と、明人が直人の代わりに病状宣告をする。
それに直人が、げっ、おま、と顔に出し、和歌月千夏は軽い溜息を漏らす。
「………私は内面までとやかく言うつもりはないわ。みんなくらいの年ごろなら、大なり小なり経験のあることでしょうから。…人様に迷惑を掛けないならね」
そう言って直人を蛇の視線で睨む和歌月千夏。直人は蛙のように萎縮してしまう。
「とにかく、そのキャラ設定を高校三年間でも続けるつもりでも、別に構わないわ。ちゃんと学業に励んでくれるならね!」
「そこらへんは、ちゃんとやりますってっば」と、びくびくしながら返事を返す直人。
その返事に、根は真面目な生徒なのかな、仄かに思い僅かに口元を緩くさせる和歌月千夏。
しかし直人のせいで時間を押してしまったのですぐに頭を切り替え、順番を待つ次の生徒の名前を呼んだ。
魔王ギガソルドもとい蘇我直人は、とりあえず和歌月千夏の強烈な視線から外れたことに安堵する。
だが、彼は気付かない。
右隣の女生徒が、顔面蒼白で驚愕の視線を、自称魔王の転生者に向けていることに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます