刹那は穢れなき白のまま。
残滓
刹那は穢れなき白のまま。
冷えた手は、ひたっと僕の頬に触れた。彼女の首につけられた硝子の検体者認識キューブには、「死」を意味する紅い信号が表示されている。
どうして、彼女は死んでしまったのだろうか。僕は分かりきったことを、頬に寄せた血の気の無い手にそう問いかけた。無論、答えは返ってこない。どんどんと実験室の白に溶け込んでいくその肌は、静かに感情を忘れていく。
「…君は本当に、これで幸せになれたのかい」
重く閉じた瞼に問いかける。そして、己の心に問いかける。本当に僕は、君の願いを受け入れて良かったのだろうか。本当に彼女は、あんな願いを心から望んでいたのか。
「安楽死専用薬被験者:001」。
それが彼女の名前だった。本当の名前は被験者のプライバシーを考慮して、研究者には知らせられない仕組みになっているから、この白い檻の中の人間は誰も知らない。
被験者面接の時も、彼女はエントリー番号で数えられていた1人に過ぎなかった。それでも、鮮明に覚えているのは、彼女の言葉だった。
「幸せを見つけに来たのです」
偽りのない純真な瞳は、面接に訪れた誰よりも力強く、綺麗だった。
-----------------
「14時26分54秒。被験者:001、ご臨終です。これより遺体を解剖室に移動します」
女性研究員の合図で、僕ともう1人の研究員は、彼女の身体は移動用のストレッチャーに移す。石のように硬くなってしまった彼女は、亡骸に違いないようだった。
これから彼女は契約通り、臓器提供の為の解剖が行われる。もう生前と変わらぬ姿で会えるのは、実験室から解剖室へ移動するわずか10メートルという距離しか残されていない。それでも僕には十分に思えたのだ。
「移送は僕にやらせて下さい」
これから彼女と最後の話をさせて下さい、と。
記憶の中の彼女はいつも笑顔だった。
「おはようございます。いつも検温ありがとうございます」
「今日は少し肌寒いみたいですね。お身体には気をつけて下さいね」
「きっと明日はいい日になりますよ。大丈夫です」
思い出せば思い出すほど、僕の中で彼女が、美術品のように、額縁に収められていく。記念、とでもいうのだろうか。どんどん彼女に「過去」というレッテルを貼り付けていく。
最後に、とはいっても、彼女に何を伝えればいいのだろう。軽々しく「ありがとうございました」で終わらせられるほどの別れなら、僕は迷わずそう口にしただろうが。
僕にとってこの死は、重いものだ。一言で済ませられる訳が無かった。
それでも。
10メートルという数秒を、無駄にはしたく無かった僕がやっとの思いで声に出すことが出来たのは、たったの一言だった。
「最後まで貴女の笑顔が見られて、僕は幸せでした」
まもなくストレッチャーは僕の手を離れ、廊下で待機していた解剖医に渡された。滑車が音を立てて部屋の奥へと運ばれていき、重苦しい鉄鋼金の扉がギギギと音を立てて閉じた。
点灯した「手術中」の赤いランプを独り眺めながら、僕はここでやっと自分の気持ちを理解した。
そうか。僕は彼女に恋をしていたんだ。
そんな、単純で素直な気持ちを。
赦されるだろうか。
彼女に毎日薬を投与したのは、衰弱していく彼女を傍観していたのは、最後に麻酔をかけたのは、他でもない僕なのに。
それでも、
彼女なら赦してくれる気がした。
笑顔で迎えてくれる、予感がした。
-----------------
「本当によろしいんですか?」
「はい」
白衣の男は、動揺しながら、カルテを捲った。
「…では本日より、安楽死専用薬被験者:005 として臨床実験にご参加頂きます。ではこちらに」
彼女の見た最期は、何色だっただろう。
刹那は穢れなき白のまま。 残滓 @Rinyikisimo1106
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます