二言目

 部屋の前についた。

 なるほど、確かにこれは。

「くさいなぁ……」

 扉越しでも結構臭う。思わず眉をしかめる。耐えられないほどでもないが、これをずっと横の部屋で吸っていたら気も滅入るし文句の一つも言いたくなるだろう。

 僕は意を決してノックする。コンコンと、二回。

「すいません、下の階の高垣と言います。少しお話があるんですが」

 と挨拶も添えて。

 返ってきたのは静寂だった。留守かと思いドアに顔を寄せて中の音を拾おうとしてみる。耳に神経を集中させると、微かに声。だが音の感じからして話し声ではなく、テレビから流れる音声のようだった。

 居留守だろうか。とりあえず話をしないと大家さんに報告も出来ないので、繰り返しノックする。

「すいません、新島さん――」

 キィ、と。

 扉が軋む音と共に僅かに隙間が空いた。扉はそのまま余力で奥へと傾いでいく。

「…………」

 このアパートも来年で築四十年になるそうだ。寄る老朽化はこんな扉にも影響を及ぼしているのだろう。決して僕が壊したわけではない。これは完璧なまでの不可抗力で僕の意思は一切介在していない。

 僕はドアノブを握り、とりあえずドアを閉めようとする。


 その時、ふと。


 名状し難い感覚がその動きを止めた。


 それを魔がさしたというのか、気の迷いか、それとも出来心と称すのが正しいのか。

 僕は自分の行動に自分で迷いながらそのままドアノブを押して扉を開けることをやめなかった。

 奇妙な感覚。奇妙で曖昧で繊細な、信じる必要なんてミリ単位もない感覚の働きに。

 僕は抗わなかった。拒まなかった。

 理性のもとで思考が巡るよりも早く、手が扉を開ける。

 真昼間だというのに部屋は暗い。窓のアルミサッシが下りていた。

 自分の部屋と同じ裸電球は光を灯していない。ただ二十四インチ程度の大きさのテレビが昼のワイドショーを流していた。静かな空間に駆け出しの芸人のコメントが虚しく響く。テレビの画面が発する白い光がこの部屋での唯一の光源となって暗闇の空間をかすかに、頼りなく照らす。


 それで十分だった。


 この部屋の中で見るべきものを見るにはそれは十分な光量で。見たくないものを見れてしまう程には十分すぎる光量だった。

 だから僕はしっかりと見た。見てしまった。


 胸にナイフを突き立てて仰向けに倒れている男と。

 首を吊ってブラブラと体を揺らしている女を。

 しっかりと。直視した。


「え」

 言葉が、漏れる。


「え、ええー…、ええ…」

 それまで閉じられていた感覚が急に開放される。見て知ってしまえばもう誤魔化せない騙せない欺けない。

 自分の感覚を。

 暴力的なまでに脳を揺らす血の香り。官能的なまでに心を惑わす肉の香り。そしてそれらを完膚なきまでに徹底的に覆い潰す腐臭。

 久しく嗅ぐ死の匂いだった。

 

 つまり、そう。その匂いを発している彼らは死んでいた。

 僕が見たのは、正しく表記するならば胸にナイフを突き立てて仰向けに倒れている男の"死体"と、首を吊ってブラブラと体を揺らしている女の"死体"だった。

 

 十全なほどに純然とした純粋な、死体。


 久しくというのは僕にとっても、そして恐らく世界にとっても。

 二週間前からこっち、この世界に死はない。この世界で死ねないし、死者は生まれない。

 という事はつまり、彼らは二週間以上前には既に死んでいたという事だ。


 恐らくこんな事態は珍しくはあるだろうが滅多にない事でもないだろう。日本での高齢者の孤独死者の発見数は年間三万人近いというし、さらにその数は年々右肩上がりだという。世界規模で考えれば今でも大量の未発見の"異変"以前の死者が存在するはずだ。

 つまりはこの二つの死体もその一部というわけで。

 

 しかし。

「死んでるのか」


 なんとなく独り言を呟いてみる。前までは日常的に見ていたものなのに、少し間が空くともうなんだか新鮮に感じる。いや、見ているもの自体は新鮮という言葉から最もかけ離れたものだけれど。


 異常で非日常な光景と姿を前にして、脳は平常運転を続けていた。心は通常運行を続けていた。前職の精神的名残だろうか、それとも変容した世界の影響か。

 息は詰まる事なく吸って吐かれ、動悸は乱れる事なく淡々と脈打つ。

 むしろ心は一層、落ち着いていた。それはここが"異変"の起きた狂った世界の中で、正しい、否、正しいと信じてきた自然の摂理に満ちた空間だからか。

 人は生きて死ぬ。

 そんな"元"事実であり"元"現実が心を平坦にさせていた。


 フルフラット。

 心電図の波形だけが起伏を作っている。


「しかしどうしたもんかな……」

 それでも迷うは迷う。これまで葬儀屋として何十何百といった、それぞれ様々な死因と想念を連れた死体を見てきたけれど、ここまで事件性がそのまま残されたのは初めてだった。


 警察や病院に連絡するにせよ誰か他の人に知らせるにせよ、なるべく詳細に状況の説明を出来た方が良いと判断して部屋に踏み入る。ここまで、なんというか分かりやすい状態なら今更僕が何をしたところで強い疑惑がかかる事も無いだろう。

 扉を閉め、玄関で靴を脱いでから足を踏み入れる。「お邪魔します」という挨拶は忘れずに。


 玄関扉が閉まり、陽光も遮られても二つの死体の場所は明確にわかる。そういう存在感があるというか、特殊な力場を発していた。

 とりあえずまずは首を吊ったままで目線の近い女の方から見る事にした。

 真っ白なワンピースに赤黒い血が散って映えている。体を吊るしているロープの先端は未灯火の照明の根本に縛られていた。足元には大量の雑誌が散乱している。雑誌を積んで踏み台にして首を括ったのだろう。


「ん」

 足元から胸元までをもう一度視線でなぞる。さっきは気づかなかったが右手の甲に血がついていた。そのまま視線は上昇し、少し首の角度を急にして頭上の女性の顔に向く。

 輪になった縄の首輪の上に鎮座する女の顔を見て、僕はこの部屋に入って一番の勢いで目を見開いた。

 別にその女性の顔が驚くほど美人だったり好みだったりしたわけじゃないし、死体愛好家の趣味は僕にはない。

 黒髪のストレート。髪の間から見える耳には似合わないピアスがあった。目は閉じられ、化粧っ気のない白い肌の中で唇だけがほのかに色を持っていた。

 だが、僕が注目したのはそういった外見的特徴ではない。いや外見といえば外見なのだが、僕が目を固定したのは彼女の顔、ではなく。


 それが浮かべる表情だった。

 そこには何もなかった。そこには喜怒哀楽はなかった。そこには満足感も達成感も未練も後悔もなく、ただただ虚でうろんだった。

 生前のどんな事象にも引っ張られていない、死者として独立した彼女のその表情は。

 

 僕が想像する僕の死に顔だった。

 葬儀屋として何度も遺体の顔を見て、その度に自分の死に顔を想像した。自分は死の間際何を思い何を悔い何に満ちるのか。

 何度想像しても僕の死に顔は無表情で、何も抱いていなくて。

 そしてその想像が脳裏に映し出される度に、僕は再認する。

 僕の空っぽさを。


「…………駄目だな」

 駄目だった。完全に思考が向かなくていいベクトルへ向かっていた。

 馬鹿馬鹿しい。

 全く。

 馬鹿げている。

 何度も自分に言い聞かすようにしているのも含めて。


 視線を首吊り女の顔から離し、ついでにグダグダと続いていた不毛な思考も切る。 

 切り離す。

 次は仰向けに倒れている男の方だった。確かこの部屋の主は若くて体が大きく、強面の男だという事だったが、となると全ての項目に当てはまるこの死体が新島さんか。

 子供に目線を合わせるようにしゃがんで検分する。何よりも最初に目に入るのは胸から生えている包丁。テレビの明かりだけの空間にも慣れてきて、周囲に飛び散った血が目に入る。この量と盛大さからして刺したのは一回だけじゃなく何度も何度も、五臓六腑に穴を空けるほどに包丁を振りかざしたのだろう。包丁の柄の部分には血。振り返ってみると丁度ぶら下がっている女の手が目の前にあった。手には血。


「まぁ十中八九というか」


 男女。感情に身を任して何度も刺したであろう死体。後を追うように自殺。

 痴情のもつれという単語が頭の中でパチンコ屋の看板のように派手に明滅する。

 自分の真上の部屋でそんな昼ドラめいた事が行われていたとは、とため息をついて男の方に向き直る。


 部屋の暗さも作用して真っ黒な服を着ているのだと思っていたが、端の方が白いのを見て元は白いTシャツが空気に触れて赤黒くなった血で染まっているのだと気づいた。

 もう晩秋に差し掛かっているのも相まって、二週間も放置されていたのにも関わらず死体の腐敗はそこまで酷くない。

 生気のない瞳は瞳孔を開き切っていた。天井を向いた顔は虚ろそのもののうろんな表情を浮かべている。自分の身に起きた事態を理解出来ていないような。もしくはその事態が起きた原因を理解出来ていないような。

 ただただその体は青く冷えている。凍りついている。静止している。生を失い、死している。

 

 そこでふと気がつく。

 いや、気がついていなかった事を思い出す。

 胸から包丁を生やした眼前の男性の姿はこれ以上もこれ以下もなく死体だった。

 けれど、さっき見た女性の首吊り死体はどうだったか。閉じられた瞳。白い肌。ほのかに色づいた唇。


 ほのかに、赤く、色づいた唇。


 違和感。

 違和感、違和感、違和感。

 確か首吊り死体は失禁したり舌や目が飛び出ていると聞いたが、そんな様子は見 られなかった。

 違和感は警鐘となって身体中に鳴り響く。僕は立ち上がり、もう一度首を吊ったままの女の前に立つ。横顔がテレビの明かりで照らされ、青白く光る。

 つま先立ちをして顔を覗き込む。今度はさっきのようなくだらない戯言を服らます為ではなく、真面目な――いや殺人現場にこうして勝手に踏み入っている時点で真面目も何もないのだが――検分として。

 ピンと足を張って、やや不安定だが倒れないようにバランスを保ちながら僕は彼女の顔を覗き込む。


「あ、人だ」

 そして首吊り女は眼を開けた。

 不法侵入者を目にして女はそう呟いて首を傾げ。

 僕は今度ばかりは心底喫驚して派手に転んだ。


 フルフラットは乱れた。

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