三歩目

 ドアの隙間から僅かに顔を覗かせ、周囲に誰もいない事を確認してから部屋を出る。扉を全開のままにして、巨大なボストンバッグを引きずり出す。人目につかないよう、可能な限り迅速に行わねばならない。

 しばらく使っていなかった筋肉が急に駆動して悲鳴を上げる。青筋を浮かべ、歯を食いしばりながら引っ張る。ようやく室内から完全にバッグが出た。

 その勢いを失わないようにそのまま運び、アパートの前に停めておいた白のハイエースの後部にいったん置く。道路の上を引きずられたボストンバッグの底は白く汚れていた。数年前にネット通販でサイズ確認せずに買い、予想外の大きさに落胆してからずっと放置していたが、まさか遂に役に立つ日が来るとは。

 擦り切れて穴が開いたりしていないか確認してから僕はハイエースのトランクを開ける。ここが一番の難所だった。ボストンバッグの端を持ち、思いっきり引っ張り上げる。無理な扱いをしたからか、中から木の枝が踏まれて折れるような音が数回聞こえたけれど、僕は意に介せずそのまま広いトランクにバッグを勢いよく放り込む。

 作業を終え、一息つく。一息どころか何度も。肩で息をする。それも荒く、乱暴に。

「何だって僕がこんなことを」

 思わず愚痴るが、その答えは僕のお人よしというか人にノーと強く言えない性格のせいだと自覚していたので自然、語調も力ない。

 乱れていた息は次第に落ち着き、僕は深呼吸代わりのため息を最後に一つ吐いてハイエースの運転席に乗り込み、エンジンをかける。ブオンという駆動音が体を揺らす。僕は慣れない手つきで発進準備をする。車の運転なんて久しぶりだった。

 気を落ち着ける為にもう一度息を吐いて、僕は恐る恐る足をアクセルペダルの上に置く。

 安全第一。

 それを肝に銘じて車は緩やかに発進する。

 トランクに死体の入ったバッグを載せて。

 僕はおっかなびっくり指示器を右方向に出しながら、こんな重労働をする羽目になった経緯を呼び起こす。

 が、ペーパードライバーゆえ運転に集中しないと本気で危険なのでここは回想シーンに仕事をしてもらう事にした。

 




「あ、人だ」

 

 首を吊ったままの状態でそう呟いた女は、転んだ際に頭を打って悶絶している僕を冷ややかな目で見降ろす。

「何やってんのあんた、人の部屋で」

 至極当然ごもっとも。

 けれどそれを至極当然ではない存在に言われると混乱した頭にさらに奇妙な感覚が混ぜられる。

 口をパクパクと死んだ魚のように開閉する僕を放置して、女は暗い室内を見渡してから一人納得したように頷いた。

「なるほどね、”閉じて”からもう一週間経ってたのか。それで異臭か何か異変に誰かが気付いて」

 目は日付表示機能の付いた時計に向けられていた。

「それであんたが確かめに入って来たって感じか。あんた名前は?」

「あ、えと高垣だけど、ですけど」

 思わず反射で問いに返してしまう。声が上ずる。

「ふぅん、あたしは天木。高垣、たかがき、たーかーがーき、ね。そんな名前の人ここにいたっけ?」

「あ、えと越してきたのは最近で、ていうか”異変”以後、です」

 そう答えると、それまで流れるように喋りつづけていた首吊り女は少し考えるように右手を顎に添えた。

 赤黒く変色した血に染まった、右手を。

「”異変”、ね。この部屋のテレビが遂にボケて意味わかんないニュースを流し始めた可能性も零じゃないかな、なんて冗談交じりに考えてたけど、やっぱり冗談に過ぎなかったか。ていうかまぁ、私が冗談の作り話の上の存在じゃない時点でもう冗談ですませられないよねぇ」

 何せ私が死ねてないんだから。


 何ともなしにその言葉は呟かれた。

 死ねていない。

 死ねない。

 死ぬことが出来ない。

 それが”異変”が引き起こした現象。

 それはつまり、首を吊ってブラブラと体を揺らしながら平然と話し、平静に思考し、平常に在れるという事。

 けれど。

「じゃあこの人は」

 そう言って僕はテレビの前で仰向けの姿勢で死んでいる男を指差す。

「どうして死んでるんです」

 我ながら馬鹿な質問だと思った。胸に包丁が刺さった男がなぜ死んでいないのかだなんて、どれだけ頭の回転が緩やかな人間でもしない質問だった。

 二週間前、”異変”が起こるまでは。

「うん、ああ」

 考え込んでいた女の眼が僕に向けられる。男の死体は、視界に収めていない。

「たぶんだけど――、コイツは現状世界で最期の死亡者で」

 私は現状世界最期の殺人者だ。



 新島の死亡時刻、午後十一時五十八分。

 天木の死亡”失敗”時刻、午前零時九分。

 死亡と時刻の間に”推定”の二文字は入らない。

「なんせ私が見たんだからな、その時テレビに表示されてた時間を」

 新島の体を何度も包丁で突き刺してから。

 首を括り、踏み台を崩してから。

 

 つまりはこういう事だった。

 新島は”異変”発生の前日、数分前に殺され。

 天木は”異変”発生数分後に、自殺を敢行し、失敗した。

「それからずっとこのままだったんですか」

「ああ、なんせ吊ったまま自分で解けるような柔な結び方はしてないし、誰か呼ぼうにもスマホは手に持ってなくて、何より呼んだところで、ねぇ」

 この状況をどう説明するのか。

「けどテレビをつけたまま死のうとしたのは英断だったかな。お陰で何も動けないこの状態でも情報は得られたし、最低限の娯楽はあった。チャンネルを変えられないのは欠点だったけど、そこまで贅沢は言えないよな」

 そう言って天木は首をすくめる。首を吊られた状態で器用なことだ。

「けど幾らなんでも暇だったんでしばらく意識を"閉じる"ことにしたんだ。一月かそれ以上か、状況が大きく変わるまで。ぼぉぉんやりとな」

「けれどそこに、僕が来た」

「ああ、最初はびっくりしたよ。なんせ人の気配がすると思って警察か大家の婆さんが遂に来たかと思って見てみたら、本当に見ず知らずの男がいたんだから」

「あぁ……、うん、なんかそれは、ごめん、なさい」

 僕はなんとなく謝る事にした。

 天木はふんと鼻で笑う。

「けどあんたも何だってこんなボロっちいアパートに来たんだ? 言っちゃ悪いが人間として生きていける最低レベルスレスレだろ、ここは」

「えと、"異変"で仕事回らなくなってクビになっちゃって、いやなりまして、それで家賃の安いここに」

「さっきから思ってたけどその取ってつけたような敬語、いいよ。面倒だしそもそもたぶん私の方が年下だ。二十歳」

 六つも歳下だった。意外だった。何というか既に人として大成してる感じがあったから。

 オーラというか。貫禄というか。

 見る世界の方向がもう定まっているような。

「ていうか、へえ。"異変"で職なしって珍しいんじゃないの、知らないけど――」

 そこまで言うと天木は急に口をとめて手を顎にやった。考えるときの癖らしい。

「なぁ、あんたもしかしてだけど前職は何か、葬儀関係の仕事だったのか」

「え、うん。葬儀屋」

「葬儀屋。へぇ、葬儀屋、ねぇ」

 なるほどそれは。

 都合がいいと。

 彼女は確かにそう言った。

「合縁奇縁、って感じだな。なるほどね」

「あの」

「なぁあんた」

 遮られてしまった。

「あんた、高垣だったかな、一つ頼まれてくれないか」

「頼み……」

 頼み事。

 僕がこの部屋に入って一つの死体と一人の首を吊ったままの女を見つける事になった原因であるお願い事と意味は同じ。

 嫌な予感しかしない。

「コイツの、このクソ男の死体をさ、どっかに捨ててきてくれないか」

 的中した。

 というか無茶な無理難題だった。

 死体遺棄。

「いや犯罪じゃないか」

「不法侵入も犯罪だけどな」

 そう殺人罪を犯した女が言う。

「なぁ頼むよ。今はまだギリ大丈夫だけどコイツももう少し腐敗が進んだらいよいよ隠しきれなくなる。そうしたら面倒なんだよ、色々と。困る事になる。このチャンスを逃したら」

 そう言いながらも天木は殊勝な態度を崩さなかった。

「いや、そんなのただの証拠隠滅じゃないか。君の言う通り僕は不法侵入者かもしれないが、それならなおの事罪を重ねるわけには」

「金をやる」

 またもや遮られた。遮って、切り出された。

「私がコイツに黙って貯めてたへそくりがある。現金でそのまま隠してあるから面倒事が間に挟まることもない。膨大な額ってわけじないけれど、端た金でもないと思う。あぁ、あとそれと」

 血の固まった指先で新島を示す。

「こいつのポケット漁ってみろ。鍵があるはずだ。白のハイエース。裏の駐車場に止めてあるはずだ」

 保険やらは入らないだろうが、まぁそれは勘弁と。

 天木は世間話の一環であるかのように言う。人にものを頼む態度ではない。

 僕はここでどうとでもする事が出来た。

 軽くあしらうもよし、無視してこの部屋から出ていくのも妥当。少し意地を悪くすれば、頼みを聞くフリをしてへそくりと車の鍵だけ貰ってトンズラするのもまぁ悪くない。

 何せ相手は首を吊ったままで、何も手出し出来ないのだから。手も足も自由に動かせず、ただブラブラと体を揺らす事しか出来ない。

 口のない死人よりも酷い状態。

 まともに構う方がおかしい。

 

 なのに、僕は。

「そんなの提示されたところで、僕が君のお願いを聞く理由にはならないだろう。なるには、弱すぎるだろう。そんなリスキーなお願いを聞くには」

「うん? お金いらないの? こんなとこに住んでんだから金欠だろ」

 いやお金はいるが。金欠なのも図星だが。

「そうじゃない。そういう問題じゃないだろ。君は人殺しの犯罪者だ。そして死体遺棄はそれと同じくらい罪深い。いや、罪に深いも浅いもあるものか。とにかく、今僕がするべきことは、君を通報する事なんだよ」

「ダウト」

 天木は断言した。

 力強い口調で。だけれども。

 顔は、つまらなさそうな表情を浮かべていた。

「あんたそれ本気で言ってる? そう言わなきゃって思ってるだけだろ」

「…………」

「あんたもう、どうでもいい、って思ってるタイプの人間だろ。なんせ、私もそうだからな。分かるんだよ」

「…………」

「ていうかどうでもいいって思えるようになったからコイツ殺したんだけど。どうでもいいは無関心じゃなくて自暴自棄だからな」

「…………」

「けどあんたはもっと酷い。自暴自棄にも至れてない。暴れるのも棄てるのもやめてる。ただ、諦めてる。いや、違うなそんな格好の良いもんじゃない。あんたはただ、受け入れてるだけだ。ぼぉぉんやりとな」

「…………」

「事実を。現実を。それがどれだけ不条理で非日常で非現実的でも、あんたはそれに異を唱えない。不干渉で、俯瞰症なだけだ」

 ズケズケと。あけすけに。

 あまりの言い草に僕は思わず口を開く。

「――――」

 ――――。

 僕は何を言おうとした?

 反論? 異論?

 開いた口からは何も出ない。

 何も出ない口では議論も口論も出来ない。

 それは。

 僕が彼女の言葉に納得しているからか。

 腹の底で。心底から。

 彼女の言葉を否定出来ないからか。

 この惨状を見て、泣きもせず、吐きもしないほどに。

 何にも最低限の関心しか持てず、誰も何もかもどうでもいいと、一歩引いたところで世界を見ている自分に気づいていて、それを痛い恥ずかしい気持ち悪いと自己嫌悪していながら。

 それでもそうあることしか出来ない自分であるがゆえに自分であると、もう受け入れてしまっているからか。

 人間として失格なのではなく。

 そもそも、裁定の場に僕は立ち入っていない。

 立ち入ってすら、いない。

 

 黙る僕に天木は言葉を浴びせ続ける。

「そんなやつが通報しなきゃなんて本心から思うわけない。思ってもない事言うくらいなら」

 何にも思ってすらいないなら。

「とりあえず手持ちくらいはあっためとけよ。地獄の沙汰も金次第、なんだろ」

 ま、地獄もう行けないけど。


 彼女の言葉は。

 それは糾弾ではない。

 それは非難ではない。

 それは否定ではない。

 なのにどんな言葉よりも苛烈で。

 どんな言葉よりもまっすぐだった。


 僕は黙って立ち上がり、新島のズボンのポケットに手を突っ込む。左にはない。右に入れ直し、ガサゴソ。あった。

「契約成立だな」

 天木は清々しいほどの笑みを見せる。僕は応えない。

 そういえば。

「ずっとこの状態で話してたけど、下ろさなくていいのか。そこから」

「あーいい、っていうか念の為に聞いときたいんだけど、私が意識を"閉じてる"間に法律とかって変わってないよな? 人殺しても罪に問われなくなってたりとか」

「そんなすぐに変わるわけないだろ」

「だよな、じゃあ良いよこのままで。下りて外に出て面倒な事になったら嫌だし。ニュースで見たけど死んだけど死んでない奴らはどっかの施設で今隔離されてんだろ? ごめんだね、そんな一掴み幾らの駄菓子みたいな扱いは」

「あっそ」

「それに今腹減らないんだよ。疲れとかもないし、眠くもならない。寝ようって自分でわざわざ思わなきゃこの体たぶんずっと動く。私だけなのか、死のうとして死ななかったやつは皆そうなのかは分かんないけど」

 へぇ、そうなのか。そういうのも施設に隔離されている人達を検査したり分析したら原因が分かったりするんだろうか。不死者の研究なんて現代科学でどうにかなるようなものでもないと思うが。

 どうでもいい思考を断ち切る。

「じゃあ明日、この死体を運ぶ為にまた来る。運び終わって帰ってきたら君はへそくりの隠し場所を僕に教え、僕は金を貰う。それで僕達の契約も関係も終了だ。いいな?」

「いや、来いよ。終わってからも」

「なに?」

「暇は暇なんだよ。ずっとテレビ見るのも飽きるしな。話し相手は欲しいのさ」

 こいつは共犯者を話し相手にするつもりか。

 呆れている僕を置いて天木は話し続ける。「あ、ものはついでなんだけどさ、良かったら今度延長コード持ってきて繋いでくれないか。スマホの充電コード、この部屋のコンセントの位置からだと届かないんだよ」

「じゃあな」

 僕は無視して部屋を出る。あ、おいごめん悪い調子乗った、おーい。背に投げつけられる声を気に留めず僕はそのまま部屋を出た。

 急に明るい世界に出て目が慣れない。空気が綺麗と、生まれて初めて感じた。

「運ぶのにはこの車を使うとして」

 まずはあのサイズの死体を隠せるものを探さねばならない。確か数年前に買って放ったらかしにしていたボストンバッグがあるはずだ。このアパートに捨てずに持ってきていたかが不安だが、探すしかない。

 もしその途中で使ってない延長コードが見つかれば、まぁ、誰か欲しがってるやつがいればやるとしよう。





 硬い土の感触。重労働続きの体は悲鳴を上げていたが、これも金の為だと耐えて腕に力を入れる。シャベルが深く埋まり、一気に掘り起こす。

「もう、絶対に、人の、頼みは聞か、ない」

 悔恨と後悔を言葉にして吐き出す。

 周囲は一面の空き地で、人の気配などするはずもない。車は空間を仕切っていた柵の手前で停めている。

 ここは元はバイパスか何かの開発予定地だった。が、作業中の事故で死者が出てからは放置され、更地になっている。

 民家や建物が無くて人目につく可能性が低く、かつ死体を埋めても当分はバレる事のない場所で考えるとこんなところしか思いつかなかったのだ。

 最初は川に流すのも考えたけれど、不特定多数の目につく可能性が高いのでやめた。

「なんというか物騒な思考だよなぁ」

 それを平然と自認出来ているのが一番物騒だと思ったがそれは口にしなかった。

 昼過ぎに出たが、気づけば太陽がもうだいぶ傾いていた。予定よりもかなり時間を使ったが、それでもようやく作業も最終段階を迎えていた。

「こんなもんだろ」

 そう一人ごちる僕の前には、ちょうど成人男性でも無理矢理体を折り畳んだら入れそうな大きさの穴だった。

 僕は来る途中に買ったシャベルを放り投げ、傍に置いてあったボストンバッグに手をかける。今度は持ち上げる必要はないので比較的楽だった。足を踏ん張りながら引っ張り、穴の中に落とす。その過程でまたゴキポキャグシャと骨が折れる音がしたが、そもそもボストンバッグに入れる為に体の各所を無理に曲げた時点で全身から乾いた悲鳴があげられていたので今更だと思う。

 放ったシャベルを手に取り、今度は掘った土を埋め返す作業をする。買ってから初使用のボストンバッグがどんどん土に覆われて隠れていく。ありがとう、君は良い買い物だった。

 穴のそばにあった土の山は消え、死体はこれにて可能な限り完全に隠蔽された。なんせ死体を埋めるのは初めての経験だったのでこれが正解なのか分からないが、まぁ悪くない出来だとは思う。

「…………」

 これで僕に任された仕事は終わりだった。天木との契約は達成され、金は手に入る。

 けれど。

 何となく。

 僕は自分でも気づかない内に手を合わせていた。眼を閉じる。

 花も念仏も参列者もいない。

 今までで一番杜撰な葬儀だったけれど、今までで一番距離の近い葬儀でもあった。

 なんせ殺した人間に動機やら何やら全部教えられたのだ。


 車、ありがたく使わせてもらいます。


 それはこれまでで一番心のこもった合掌だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る