一手目
ノックの音で目を覚ました。
時計を確認すると午前十一時五十分。
「おおぅ……」
あまり健康的とは言えない起床時間。急な来客を無礼と切り捨てて追い払えない時間でもあった。
ノックの音は鳴りやまない。ボロアパートゆえに軽いノックでもドアはガタガタと揺れて騒がしい。だが中にいる人間に訪問を伝えるのにはこれ以上なく効果的だ、とポジティブに考える事にする。夜勤明けでまだ重たい頭を抱えながら体を起こす。
「はいはいはいはい、今出ますから」
敷布団のそばに散らばったままのビールの空き缶とコンビニ弁当を足で退ける。
答えてから宗教か新聞の勧誘だったら迂闊だったなと考えたが、少なくとも前者はない事を思い出す。今回の”異変”騒動で最も被害を受けたのは間違いなく自分のような人の死を前提として成り立っている職業だと思っていたが、どうやらそれ以上に被害が甚大なのが世界各国津々浦々の宗教団体だそうだ。何せありがたがって謳っていた救世主の御業である死後の復活や、善行を重ねる事による輪廻転生が世界的にやすやすと万人に実現されてしまったのだ。
どんな聖典もただの三文小説に成り下がる。
そんな事を考えながら、適当に身なりを整える。ひとまず人に会っても社会不適合者と思われないくらいにはなったな、と判断してから扉を内側に開けた。
「こんにちはぁ、高垣さん」
そこにいたのはこのアパートの大家さんだった。
姿が目に入ると同時に思考が閃く。家賃の支払い期日はまだ先のはずだし、何か文句を言われるような事をした覚えも無い。
「あのねぇ、実はお願い事があるのよ。といってもそんな面倒ごとってわけじゃないのよ、安心して」
警戒する僕を意にも介さず、大家さんは勝手に話し始める。雰囲気と語り口調からして僕にとって不都合な話ではなさそうだと判断し、緊張を解く。
「お願い事……」
「そうなの、あのねぇ、あなた丁度ここの真上の階の新島さんと面識はある?」
僕は自慢じゃないが人づきあいが良い方ではない。というか上手くない。そんな人間が左右の部屋以外、ましてや上の階の人間とわざわざ交流を持とうとするだろうかいやしない。
華麗な反語法だった。惜しむらくは華麗にしても何の意味がないことか。
さらに言うなら本当に自慢する事ではなかった。
僕は悲しくなりながら首を横に振る。
「あのねぇ、その新島さんの部屋から異臭がね、するって周りの部屋の人が言うのよ。最近外に出るところも誰も見かけて無いらしいし、生ごみをため込んでるんだか知らないけど、迷惑だって」
なるほど、だいたい話が見えて来た。
「つまり僕にその、新島さん、って人の様子を見に行ってほしい、という事ですか」
「そう、そうなのよぉ。察しが良いわぁ」
大家さんは露骨に目を輝かして顔の前で手を叩く。
「で、頼まれてくれるかしらぁ……」
話は見えてもその後の展開を全く読めていなかった。数秒前の自分を袋叩きにしたい気持ちを抑えながら僕は曖昧な笑みを浮かべる。
「あー、そうですね。どうして僕なんです? それこそその苦情を訴えている隣人の方々がご自分で行ったりするのは……」
「それがねぇ、その新島さんっていうのは若い男の人なのよ。私も入居手続きの時くらいしか話してないんだけれど、体も大きくて、しかもちょっと人相がわ、ううんと、強面なのよねぇ」
情報が追加されるにともなってどんどんお願いを断りたくなってくる。しかもこの人今人相が悪いって言おうとしたぞ。その後の言い直しも全くフォローになっていなかったが。
「それでこのアパートでその次に若い男の人っていうとあなたになっちゃうのよ。私達みたいなおばさんだと怒鳴られたり何かされたりした時太刀打ちできないしねぇ」
しかも怒鳴ったり何かしてきたりするのかその男は。
最悪だった。
出来れば一生関わりたくないレベルで。
「あー……、うん、なるほど……」
適当に言葉を濁しながら全力で脳を回す。どうすればこの話を穏便に、かつ丁重にお断りできるか。
「で、で、お願いできるかしらぁ」
人の苦悩も露知らず、大家さんの期待のこもった眼から逃げるように顔を逸らす。開けっ放しのドアの前で話していたから自室が視界に入る。
四畳半一間に畳敷き。トイレ洗面台ありで風呂はない。一応形だけのキッチンはあるがどれ程小柄の人間が使用することを想定して作ったのかとそれこそこちらが文句を言いたくなるくらいに狭い。
人間が健康で文化的に最低限生活可能な空間だが、家賃はその最低限度合いに比例して驚くほど安い。職無しの自分にとっては何よりも手放す事の出来ないものだった。
向き直ると大家さんの眼にはもはや星が瞬いていた。僕は露骨にならない程度に小さくため息を吐く。心象は悪くしないに越したことはない。格安で居住空間を提供してもらっていることに関しての恩も、まぁ少なからずある。
「えぇ分かりました。今日にでもその部屋を尋ねさせてもらいますよ」
嫌な事は早いうちに済ますのが僕のポリシーだった。
「まぁありがとう、本当に助かるわぁ」
眼の中の星はビッグバンを起こし顔を歓喜で歪ませた大家さんはそれから何度もありがとう助かるを連呼し、帰っていった。僕はそれを全力の愛想笑顔で見送り、部屋に入って扉を閉じると同時に盛大なため息を吐いた。
全くもって。
「面倒な事になった……」
本当に。
僕はもう一度ため息をついて観念したように動き出す。向かう先はクローゼット。流石に夜勤明けから着替えていないので何となく落ち着きが悪かった。
服装。
初対面の人の部屋への訪問。しかもどうにも厄介そうな御仁だということで少し迷う。まぁ迷えるほどの数の服なんて持っていないのだが。
それから少し悩んで、結局白のTシャツに黒のスキニー、上から水色のシャツを羽織ることにした。大学入学の時に買った服だがまだ着れる。
シャツはラックにかかったままだった。取るとその奥にあった黒のスーツが目に入る。
喪に服すにはちょうどいい衣装。
喪服だった。が、肩にはもう埃がうっすらと積もっている。
二週間前までは仕事着だったそれは今や僕にとっても世界にとっても縁遠いものとなっている。
いったい誰が葬儀を挙げるというのか。
誰も死ななくなった世界で。
全ての始まりは、否、それまでの全ての終わりは、秋も終わりに差し掛かり、まだ年末は近くないがそう遠くもない、何とも中途半端な時期の日だった。
人が死ななかったのだ。
誰一人。ひとっこ一人。
人類が観測可能な範囲で。すなわち認識の中での全世界で。
事故でも殺人でも病死でも自殺でも。
誰も死ななかったのだ。
それが判明した時、世界中のニュースや報道機関は奇跡のような日だと祝福した。
長く続く人類の歴史の中で、そんな日が一日くらいはあっても良いだろうと。
皆が呑気に考えていた。
そして皆が呆気に取られることになった。
きっかけはハリウッドスターが巻き込まれた自動車事故だった。スタッフやマネージャーから少し離れたところで煙草を吸っていた世界的俳優に車が突っ込んだ。
即時即座に即決出来るほどに即死を引き起こすその事故による死傷者数は、零人だった。
それ以上でもそれ以下でもなく。
零。
ハリウッドスターは車の下から見つかった。顔は無傷だったのは俳優の運命という事か。腰から下はグチャグチャだった。間違いなく致命傷。それでもその俳優は生きていた。いや、生きている。今も現在進行形で。普通に。尋常に。
そしてそのニュースは瞬く間に世界に広がった。世界的俳優に関する事件なだけあって拡散力も求心力も信憑性も高い。
そしてそれからだった。世界中でそれまでまことしやかに噂されてきた死者の不在に関する話題が爆発的にネットの海に広がり、人々の意識を汚染したのは。
曰くある者は首を切られたまま、離れ離れの自分の胴体を動かしてビールを飲み。
曰くある者はビルの上から投身自殺したが死ねず、死のうとして何度も何度も身投げを続け。
曰くある者は、とこんな具合に。
それまでは一笑に伏すような内容でも、誰も荼毘に伏されない今の世界では冗談と言って終わらす事はできない。
人は死ななくなったのではなく、死ねなくなったのだと気づくのにそう世界は時間を要さなかった。感覚も認識も覆い潰してくる現実が、時間をかけることを許さなかった。
死なないという能動的なものではなく。
死ねないという自分の意を介さない受動的な現象。
人という種が確立されてから七百万年。地球誕生から四十六億年。
それだけの間、少なくとも人の認識と尺度の間では共通して存在し続けたルールは路傍の石につまづいたように、何の気なしに変わった。改められた。それが正しいかどうかは別として。
人は、生まれれば、死ぬ。生きているものは、死ぬ。いつか必ず絶対に。
死ぬ、はずだった。
突如として。何の神の啓司も宇宙人による宣告もなく。
世界はそのあり方を大きく変えた。
世は末か、それとも新世界を迎えたのか。
そんな事も気にならない速度で。
コンビニバイトの暇な時間に読んだ新聞によると、現状"死ねない事が確定した人間"は世界各地に急増で建設された施設に隔離され、細かい検査を受けているそうだ。
けれども"施設"は作った端から人でいっぱいになり、既に受け入れ不可能になっている場所もいくつかあるらしい。
「どうなるんだろなぁ、この先」
口をついて出た言葉はどこまでも他人事だった。
世界のあり方がどれだけ変わろうが、頭を悩ます事は職探しと金のやりくりで、やる事といえばコンビニバイトとご近所づきあい。
どこまでだって他人事だった。
「何もかも他人事に出来れば楽なんだけどね……、はぁ面倒くさい」
口をついて出るのは愚痴だ。いかん、何か高尚な思考を巡らして気分を変えようと思っていたけれど結局戻ってきてしまった。
原点回帰してしまった。Uターンしてしまった。
そのまま通り過ぎてしまえれば楽だが、名指しでご指名とくればスルーのしようもない。
「パパッと終わらせて二度寝しよう」
スニーカーに足を入れる。これもだいぶボロくなってきているな、と思いながら部屋を出る。外は快晴で秋の風にしては暖かくて気持ちがいい。窓を開けて風を受けながら積み本を崩すのも悪くないな。
憂鬱な気分を紛らわすように終わった後の楽しみを考えながら僕は二階に続く階段を目指す。そこで忘れていたことを思い出した。
僕は振り返る。
「行ってきます」
閉まったままの扉はなにも返さなかった。
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