第13話

 

 


 騒ぐだけ騒いで一足先に嵐のように帰っていった睦月の伯母――倉田路代を見送り、遠慮なくカレーのおかわりを平らげたころには、とっぷりと日が暮れていた。 


「また遊びに来なさい」


 門の外まで見送りに出てくれた柾貴が、優しげな瞳で哲哉と洋海を見下ろした。


「はいっ。来ますっ」


 躊躇いも恥じらいもなく即答する洋海の目がすっかりハートになっている。

 ……これはかなり重症かもしれない。

 月明かりに照らされて佇む着流しの渋い中年――どこまでも罪作りである。


「でも……いいんですか? あの……稽古のお邪魔じゃ――」


 あの真剣を使ったとんでもない立合いを思い返しながら、哲哉が訊ねた。

 子供たちの剣道を終えた後での、秘密の、しかもどうしても必要らしい修練で忙しいのでは?それどころではないのでは?と思ってしまう。

 時間的にも精神的にも自分たちにかかずらっている余裕など無いはずだろうに。        


「大丈夫。あれは本来、真夜中の修行だ。君らが帰ってから存分に励むよ」


 考えが読めてでもいるのか、一切の心配を払拭しきるような極上の笑みで柾貴。

 隣できゃうんとよろめいている洋海は、とりあえずスルーすることにした。


 真夜中にあの、激しいを? 

 確かにカンカンキンキン刀を打ち鳴らしてはいなかったが、苦情が来たりしないのだろうか……とむしろいっそう心配になる。

 ぐるりと周囲を見ると、無駄に敷地が広いせいか隣家はかなり離れているし、まあ意外に大丈夫なのかもしれない。そう無理やり結論付けておくことにした。


 しかし父親がこうして歓迎してくれるのはかなりありがたいが、肝心の睦月自身はどうなのだろう。    

 気になってちらり窺うと、斜め後ろからじっと父親を睨んでいたらしい睦月が、哲哉の視線に気付いてぎこちなく目を逸らした。 

 おや、と思わず目を瞠る。

 容赦なく睨んできていたころに比べるとなんて柔軟な反応を!と小躍りしたくなるほど喜びが込み上げてきた。

 が、睦月本人としてはずっと「近寄る者すべて敵」と豪語せんばかりの氷対応だった手前、手放しで「はい仲良くしましょう」という心境にはなれないのだろう。


 そういえば今に限らず、明るいうちからずっと物言いたげに柾貴を睨んでいた気がする。

 自分たちに良くしてくれる父親に何か思うところでもあるのだろうか。


 まあ考えてもきりがないし、尋ねたところで今はまだ答えてくれるとも思えない。

 とりあえずこれまでよりも一歩も二歩も前進できたのだ。今日のところはこれで良しとしなければ、と哲哉は口の端を上げた。


「じゃ、お邪魔しました。ホントにいろいろありがとうございます」


 晴れやかな気分でもう一度柾貴に頭を下げる。


「お邪魔しましたー。じゃあね睦月。また明日ねっ」


 気安い調子で手を振る洋海と、いつの間に名前で呼ぶようになってんだこいつとギョッとして見下ろす哲哉にますます目を細め、柾貴がうなずいた。

 そしてそのまま我が子を振り返る。


「睦月、そこまで送ってあげなさい」

「うん……」


 意外にも普通にうなずいて歩き出した睦月に、悪いがちょっと――――いや、かなりびっくりしてしまった。







「――あんたさ」


 人家のまばらな長い下り坂を黙々と進んでいた睦月が、突き当たりのT字路直前でぴたりと立ち止まった。


「痣なんていつ見た?」


 顔だけ振り向いて、哲哉に真っ直ぐな目を向けてくる。


「あ……え、えーと」


 さらしになったところを見てましたと当然言えるわけはなく……。

 だらだら冷や汗を垂れ流す気分で跳ねる心臓をそっと押さえこむ。    


「あ……アレだ。保健室で寝てた時、腕まくりしてたじゃん? そ、そいでチラっと」


 見るからに挙動不審な哲哉に気付くことなく、ああ……と心なしかホッとしたように睦月は視線を外した。

 そしてうつむき加減になりながらも、あらためて正面から向き直ってくる。


「あの、さ。……黙っててくんねえかな? 今日のこととか、全部」


 今日のこと――――あの特異な稽古と実は病弱ではないということ、か。

 性別を知られていることについては、本人はまだ気付いていないらしい。


 元々バラすつもりなどないと、父親にも告げてきたが……。

 どうしたもんかと洋海と目を合わせる。 


「もし……周りにバレたらどうなるんだ?」

「ここには居られなくなる」


 試しに訊いてみただけの軽い質問に即答され、洋海がムンクの有名絵画状態になった。


「えーーーーっ!! それはヤダああああ!」


「え……」


 そんな彼女に少しだけたじろぎけ反った睦月に――――

 ふっともう一つ、あることを思いついて哲哉は口を開く。


「黙っててやってもいいけど、条件がある」


 にわかに低く抑えられ、試すように窺うように響いた声音に、睦月がすっと眉根を寄せた。 


 どんな横暴な宣告をされると思っているのか、緊張した面持ちで――だが強く、挑むような視線で見つめ返してくる。


「無視はやめろ。せめて俺たちとは普通に話せ」


「――」


 哲哉の言葉に、睦月が微かに息を呑んだのがわかった。

 思いもよらない条件だったのか、驚きですっかり目は瞠られている。

 が、そのグレーの視線もすぐに外され、何か言い淀んでいた唇は必要以上に引き結ばれてしまった。 


「…………何でそこまで俺、嫌われてんの? さすがにショックなんだけど」


 思った以上にかたくなな睦月に結構本気でがっくりきてしまう。

 なかなかうなずいてもらえないほど自分は鬱陶しがられていたのか、と。


 ――すると。 

 いや、と小さくたどたどしい声で睦月がつぶやいた。


「……違う。だってアンタ、目立つから……」


 そして目線は――――そのへんを不自然に泳いでいる。

 目立つのが、イヤ……? まあそれで色々バレたら困るしわからなくはないが。

 というか――――      


「――え、ちょ、待て待て待て。じゃ何おまえ……目立ちたくなくて皆にシカトぶっこいてんの?」


 人差し指つきで一歩迫った哲哉に、うつむき加減のままさらに視線を泳がせて睦月が一歩後ずさる。

 眉根が寄っているところを見ると、どうやら肯定の意らしい。

 悪いがちょっと噴いてしまった。


「……何が可笑しい?」


「いや、おま……それ明らかにハズしてるから」

「やだ睦月、可愛いー」


「……は?」

「逆効果なんだよ。かえって目立ってるって何でわかんねーんだ」


 堪らえようとしつつも笑いが込み上げてしまう二人を交互に見比べて、そんなまさか、と言わんばかりに睦月が唖然と目を見開いている。

 

「もしかして今までずっとそんなだったのか? 中学とかも?」

「……」


 無言だが面白くなさそうにそっぽを向く睦月に、またもや肯定の意を見てとる。

 親父さんが喜ぶわけだ。

 得心が行くと同時に、ほんっとに今までろくに友達付き合いしてこなかったんだな、と思ったら……  


「あ! あとな、もう一個。言っとくことがあったんだわ」


 突然大事なことを思い出して、そうそうそう、と哲哉はまたも詰め寄った。

 体育時のあの不届きな奴らに気をつけろと忠告するのを今の今まで忘れていた。


「一組の奴らが妙なちょっかい出そうとしてたから、気をつけろよ? やり合うんなら加勢するけど」


 でもまあ――必要ないだろうが。あの強さなら。

 言いながら先ほどの激しい立合を思い返し、情けなくも微妙な笑みとため息がこぼれる。


 しばらく口元に手を当てて考え込んでいた睦月が、ああ、あいつらか……とつぶやいた。


「わかった。それはこっちで何とかする」


 よほど嫌な記憶として残っているのか、あからさまに顔を顰めている。

 そう言えば彼奴等あいつらやたらベタベタと気安く(※半ば強引に)触ってこようと(※腕を掴んで連れて行こうと)してたなチキショウ、と思い出し胸中で盛大に舌打ちしてしまった。

 それに比べたら自分は……なんだかんだでこうして話ができるまでになっている。

 そう気付いたら、なんだか急に、猛烈に嬉しさが込み上げた。


「んじゃなっ。も、もうここでいいからよ」


 ふやけきった口元を悟られまいと、唐突すぎるタイミングだが別れの言葉を口にしてみる。

 実際暗いし人気もないし睦月おまえの方が心配だから早く帰れ、と本来なら言いたいところなのだ。なんならもう一回送っていくぞ、と。

 それができないもどかしさが心の内に残る。

 相手はあくまで「男」として自分らに接してきているのだ。隠し通そうとしているのなら、乗っかってやらねばなるまい。


「おう……それじゃ」


「ねねねね! ところでさ、睦月っ」


 軽くうなずいて踵を返しかけた細い体に、突然タックルする勢いで洋海が詰め寄った。


「――お父さん再婚とかする気、あるのかな?」

「は……?」


 下手に接触して性別がバレるのを危惧しているのか、触るなとばかりに力いっぱい押し退けて、だがポカンと睦月は洋海を見下ろしている。


(ったくもう……。継母かあさんって呼ばれたいのかよ、コイツは)


洋海おまえ……帰るぞほらっ」

「えーちょっと今大事な話を――」


 無理やり引き剥がし、ほとんど引き摺り引き摺られ状態で去っていこうとする幼馴染コンビを、今度は睦月のほうが「あ、そうだ」と呼び止めた。

 何ごとかを思い出したらしい。


「えっと、。さっき話してた英語の……やっぱ写さして」


「うんっ。あ、明日あるもんね。じゃコピーしていくよ」


 先日受け損ねた授業のノートの話だというのは、哲哉にもすぐにわかった。

 だがしかし――


「……何、名前で呼び合ってんだよおまえら」


 洋海めいつの間に?と思ったら、ムッとした表情と言葉が出てしまっていた。 


「だって洋海こいつ、苗字のほう教えてくんねーから……」


 しょーがねえだろと言わんばかりに睦月が洋海を指差し、指された方には何故かドヤ顔を向けられた。


「へへーん! 羨ましいでしょー? っていうか、自分だって呼べばいいじゃない」

「う……」


「もー面倒くさいなぁ……。睦月ぃ、うっとおしいから呼んだげてー?」


 やや頬を染めてぐっと言葉を詰まらせる哲哉に本当に鬱陶し気な視線を向けてから、洋海が睦月に振る。

 洋海からふっと目線を移し、しばらく哲哉を眺めていた睦月だったが――。


「名前……………………何だっけ」


 素で首を傾げる様子に、ああやっぱし!と哲哉の肩が落ちた。

 どうせどうせ俺なんか名前も覚えてもらえないほどうっすーい存在なんだろわかったよこんちくしょう、などとブツブツ言いながらガックリ項垂れている…………と。


「哲くんだよ」


 完全に拗ねモードに入った哲哉に、しょうがないなあとばかりに洋海が助け船を出した。


「……んじゃ、てつ

  

 控えめだが他の何よりもはっきりと響いた声に、大げさではなく思考が止まった。


「――」


「あ、哲くん照れてる」

「う、うっせぇ、おまえっ! お、俺は別に――」


 またもや幼馴染間抗争が激化しようとした矢先、


「あー……睦月笑った」


 洋海が目を瞠っていた。

 


「………………わりいかよ……」


 洋海の声で初めて自覚したのか、睦月がバツが悪いとばかりにそっぽを向き、吐き捨てる。

 ――が。 

 自分も確かに見てしまった。一瞬のことではあったが、無防備で純粋な笑顔を。 


「悪くない! 可愛いー! もっと笑って!」

「だっ、い……、いちいちじゃれついてくんじゃねーよ……!」


 抱きつきと押し返しのせめぎ合いが繰り広げられている横で、不覚にも哲哉はすっかり固まってしまっていた。


(やべえ……ホントに可愛い)


 な、なんだこの胸の高鳴りは? やべえ! 落ち着け、落ち着くんだ桜井哲哉!と心の雄叫びはほとんど悲鳴のようになっていた。


 イライラがマックスに達したのか、睦月が突然、ああもうっ!とばかりに押し問答をぶった切る。


「もーいいからほら、とっとと帰れおまえらっ! あそこの街灯んとこ右に行ったら学校の方なっ」


 自分たちの背後を大雑把に乱暴に指し示したかと思うと、くるりと踵を返して、来た道を戻り始めた。

 だが、すぐに一瞬だけ立ち止まる。


「……今日、サンキュな」


 少しだけ複雑そうに、顔を顰めたままちらりと振り返った。


「おー。また明日な」

「学校でねー」


「……おう」


 ぶっきら棒だがきちんと返ってくる声とそそくさと去って行く後ろ姿に、洋海と二人、思わず顔を見合わせる。

 どちらからともなくクスリと笑い、そのままずっと――大げさではなくずっとそのまま、締まりのない笑顔で帰途についた。





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