第6話




「どうしたの、哲くん? 具合悪い?」

 

 不意に耳に届いた女子生徒の声に、え、と哲哉は目線を上げた。

 いつの間にか帰りのショートホームルームが終わっていたらしい。

 掃除当番サボるなよー、と言い置いて中年担任が教室を出ていくところだった。

 降り続く雨のせいか、いつもは真っ先に飛び出していく野球部やサッカー部連中も、クラスメートたちとの話に花を咲かせてのらりくらりと帰り支度にかかずらっているらしい。


「哲くんってば!」

「あ、え?」


 タンッ!と机に両手を置かれ、先ほどから洋海ひろみに話し掛けられていたことをようやく認識する。


「もーっ。どうしたのよ? 体育の後からおかしいよ?」

「……おかしい?」

「おかしい! ずっとぼーっとしてるし。何よりさっきの授業居眠りしてなかった!」

「……」


 ほっとけ……と心でゲンナリつぶやいて、ふと視線を教室中ほどへ転じた。

 五限の体育途中で保健室に行ったきりの人物の席。


「六限目も戻って来なかったね、大谷くん」


 哲哉の目線に気付いたのか、心配げに、普段よりかなりトーンを落として洋海が続ける。


「まだ……調子悪くて休んでるのかな? 英語のノート持ってってあげようか? ……受け取ってくれないだろうけど」


 確かに。

 素直にすんなり受け取りそうにねーな、と思わず想像して苦笑する。


 今よりほんの少しでも素直さが出ていたら、わずかでも周りと打ち解けていられたら、睦月本人を取り巻く状況はかなり違うものになっていたのではないかと思う。

 そうしないのは――いやそうできないのは、というべきだろうか? ……わからないが。

 やはり少なからず関係はあるのかもしれない。あのとてつもなく重大な隠しごとと。


「――何かあったの? ケンカでもした?」


 いつの間にか黙りこみ、考えこんでしまった顔から何かを得ようとでもしているように、洋海が真っ直ぐに見上げてきていた。

 自分と違って何となく勘がいいのだ、昔から。


「…………何で?」

「んー保健室付き添ったの、結局哲くんだったし。……なんとなく。その流れで居眠りできないほど様子がおかしいってことは、大谷くん絡みかなあ?って……。違った?」


(何かあった、どころか……) 


 勝手に衝撃の事実を知ってしまっただけだが。それも「ノゾキ」という口が裂けても言えない手段によって。

 これまでの人生で一番長く重いため息をついて机上にガックリと項垂れ、そのまま頬杖をついた。 


 女のような顔をしたスカした奴と評され、気に入らないからと服を剥ぎ取られ吊し上げを食らうところだった睦月が……。


(――実は本当に女でした……なんて)


 言えるわけがない。いくら付き合いの長い気心の知れた間柄でも。

 そんな……本人が苦しい思いをしてまで必死に隠し通そうとしている、そんな大ごとを。


 それにもしかしたら、と思うのだ。

 告げても簡単に、というか……絶対に信じて貰えないだろう。誰にも。

 頭大丈夫か?と言われ遠巻きにされて、高校生活に早々と終止符が打たれるのがオチだ。


 は男として高校ここにいるのだ。 

 あの一組連中も知らなかったからこそ、あんな卑怯でくだらないことを思い付いたのだろう。

 他の生徒たちも皆、睦月が男子生徒であることに何の疑いも持ってはいない。自分だってそうだった。つい先ほどまで。衝撃的な光景を目にするまでは。

 女子に至っては、そこらの男子よりクールでいいなどと目の色変えて騒いでいる(らしい)始末だし。

 毎日同じ空間にいる担任だって――


 そこまで考えて、ふと目を上げる。


 担任は……どうだろう。

 本来そういった生徒の諸事情を把握し、フォローし細やかな気配りをする立場にあるのが担任教員のはずではないだろうか。(違うかもしれないが)  

 が、見ている限りでは、あの中年担任が特別睦月を気にかけているとは……思えない。


(もしかしたら――)  


 体育教師の小池だって、もし知っていたら……あのまま他のクラスの、しかも男子連中に付き添いを許可するなんてことは――。


「……」


 もしかして……養護教諭の倉田路代以外、教師たちも知らないのではないだろうか。


(――ヤバいんじゃ? もしそうなら、そんな状態で保健室で寝てるとか……あり得なくね?)


 確証は無いが、不意に何やら言い様のない不安に駆られ、哲哉は椅子を鳴らして立ち上がる。


「俺、ちょっと行ってくるわ」


「えっ、哲くん掃除当番じゃん!」

「悪い。代わりにやっといて。今度奢る」


 振り返らないまま言い放って、足早に教室を飛び出していた。







 案の定、保健室に倉田路代の姿はなかった。

 できるだけ音を立てずにドアを開けて入ってきたとはいえ、二つあるベッドのうち奥の方で、こちら側に背を向けたまま微動だにせず大谷睦月は横になっていた。

 ゆっくりと部屋の奥へ歩を進め、窓側に回り込んで顔が見えたところで、哲哉は小さくため息をついた。


(秘密にしてんだったら、もうちょい警戒しろっつーんだよな……)


 膝を抱え込めそうなほど小さく体を丸めて、睦月は静かな寝息を立てていた。

 まるで小動物だなと思いながら、手近な丸椅子を引き寄せてすぐ横に腰掛ける。

 これだけ間近で気配が動いていても起きないとは、よほど疲れていたのだろうか。

 顔色はそれほど悪くない。

 あの後倉田路代に言われて、さらしを少し緩めでもしたのかもしれない。

 だがしかし、と哲哉は胸中で盛大に舌打ちしたい思いに駆られた。

 すでにきちんとワイシャツを身に付け、ズボンもはいたままではあるが。


(……バレたらどうすんだよ)


 ノゾキによって秘密を垣間見てしまった自らの所業はすっかり棚上げし、無防備過ぎる少女の寝顔に、なぜか苛立ちを覚えずにいられない。 

 

 不思議なものだ、と心底思う。

 人間の脳みそ(認識能力?)というのはこんなにゲンキンなものだったのか、と。

 知ってしまうと、もう――どこからどう見ても女にしか見えなかった。


(なんで……男のフリなんてしてんだろう)


 簡単なことではない。性別を偽って生きるなんて。

 いったいいつから?

 何のために?

 ……余程の事情があるのだろう。おそらく自分には想像もできないような。

 そうでなければ、こんな並大抵ではない苦労をわざわざ背負うことはないのだから。


(それに、あの痣……)

 

 あの時、目に見えた範囲だけでも三、四ヶ所はあったように思える。

 倉田路代に血相を変えられ、睦月本人も治りかけと言っていたから、生まれつきのものではないはずで。


(だとしたら何だ? 何であんなに……) 


 そういえば父親がどうとか言っていたような気がする。

 倉田路代も相手をよく知っているような口ぶりだった。


(まさか虐待……とか?)


 一瞬顔を顰め、いや待て、と首をひとつ振ってベッドに視線を落とす。

 けれどもしそうなら、こんなに穏やかな安らいだ寝顔をするだろうか、と思うのだ。

 日頃、全身全霊で周囲を突っぱねてはいるが、睦月からそういった類の悲壮感めいたものを感じたことはない。あの敏い洋海でさえ何も……。

 上手く隠して押し込めているだけか?

 何せ全員を騙して女であることさえ隠し通せているのだから。

 皆一様ではないにせよ、上手くSOSを出せない被害者もいるのだと何かで見聞きした覚えもある。

 いや……わからない。

 わからないが――。


 微かなため息をこぼしてあらためて睦月を眺めやり、少しだけ身を近付ける。

 第一ボタンだけ外したワイシャツから覗く白い首筋。

 捲り上げた袖から伸びる細い手首。

 シーツの上で軽く握りこまれた、大きくはない手のひら。細い指……。


「……」


 一瞬目にしただけだが、さらしの下の腰回りも折れそうに細く、どう見ても男のそれではなかった。

 これでどうして……完全に男だと、思い込むことができたのだろう。

 白い頬に影を落とす睫毛だって、こんなに……。

 伏し目がちに、だが逸らされることなく哲哉の目は深く眠る睦月の顔を捉えていた。

 無意識に持ち上げた手が、ゆっくりとその頬に近付けられていく。


(顔だって……こんなにも――)


 指先が頬に触れそうになる寸前。

 微かな物音と共に人の気配がした。 

 

「…………て、哲くん……?」


 視線を上げてその存在を確かめるより早く、震えるか細い声が降ってくる。

 三人分のカバンを持って入口に佇む洋海の、興奮して赤らんだような青ざめたような複雑な表情を目にした瞬間。

 怒涛のように我に返って、置かれた状況を自覚した。


「あ……」


 ヤバい。

 傍から見たらこの構図は、紛れもなく――バラの世界。



 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る