第5話
「いー加減、放……っせ、よっ!」
思いのほか強い力で振り払われてわずかに驚いたものの。
体育館からはもう大分離れていたし妙な奴らのマークもとりあえず外せたことで、ならいいか、と哲哉は一息ついた。
改めて保健室に向かおうと、おもむろにごく自然に睦月の左腕を引いて歩き出そうとする。
「――」
鼻は自由になったものの、すかさず二の腕を掴まれ、少なからず睦月は目を見開いた。
「てっめえ……何――」
「どこ打った? ホントに口ん中切っただけか?」
「大丈夫だっつったろ。余計なコト――」
「んなフラフラで……全然説得力ないって知ってたか? ちっとは周りを頼れよ。また倒れて変な奴らに群がられてーか?」
万全ではない自覚があったのか、一組連中の薄ら笑いが浮かんだのか、振り払おうともがいていた腕が空中でぴたりと止まる。
上から目線で冷静に心配され、がっちり掴まれた腕も今度ばかりは放してくれなそうだと、ある意味観念もしたのかもしれない。
言葉に詰まったように唇は固く引き結ばれ、だがグレイの目は下から真っ直ぐに睨み付けてくる。
まただ、と哲哉は思った。
ヤワな身体とは裏腹に、
目を逸らしたら負け。何となくそんな言葉まで浮かんだ。
次はどんな暴言が飛び出してくるかと、受けて立つつもりで待ち構える。――と。
「……一人で歩ける」
意外にも普通のトーンで、しかも睦月のほうから視線が逸らされる。
わずかに拍子抜けしたとたんに、結局二の腕も振り払われてしまった。
よほど他人に触られるのが嫌なのだろうか。
かなりふらつきが治まってきた足で踵を返し、それでもあきらめて保健室に向かう気になったらしい。
「……」
自分より低いその後ろ姿を数歩分だけ見送って、哲哉は黙って後をついていくことにした。
この学校に入学してから初めて訪れた保健室に。
ぶっちゃけて言うと、えらくきっぷのいいオバサンがいた。
三十代半ばといったところか。ウェーブ掛かった長い髪を後ろで軽く束ねた、眼鏡に白衣のその養護教諭は、入室した自分たちを見るなりニンマリして椅子から立ち上がった。
「ハイ、付き添いの少年、ごっ苦労さん! その病人あとはこっちで診るから帰っていいよー!」
「え……はぁ」
ろくに返事をする余裕も与えられないまま、哲哉は意味もわからず背中をバンバン叩かれ、半強制的にくるりと回れ右をさせられたかと思うと――
ピシャリ。
気付いた時には一人だけ廊下に閉め出されていた。
(……な、なんだあの元気なオバサンは?)
『保健室』の表示の下には、「責任者 倉田路代」と書かれた小さなプレートが嵌め込まれている。おそらく今しがたの養護教諭の名前であるのだろう。
岩のように固まったまま閉め切られた保健室ドアをしばらく茫然と眺めていると、白いドアは再度勢いよく開かれた。
「無駄にサボれてラッキー!とか思わなーい。ホラさっさと授業に戻る戻るっ!」
「は、はいっ。すいません」
そんなつもりなどまったくなかったのだが、つい反射的に謝って哲哉は駆け出していた。
「廊下を走るなー! でもさっさと戻れー! 一秒も無駄にするなー!」
「は、はいー!」
どうしろと!?という思いで結局棟の端まで駆け抜ける。
何だろう、あの得体の知れない迫力は――。
体育館への渡り廊下が見えたところで、ため息とともにようやく歩調を緩めた。
外はまだ雨が降り続いている。
夜半まではあがらないだろうと確か天気予報で言ってたな、とぼんやり考えて窓の外を見上げた。
(……大丈夫なんかよ
体調も人間関係においても暗雲が立ち込めたような彼が気になった。
今日は何とか大丈夫そうだったが、いつまたくだらない連中にちょっかいを出されるかわからない。
タイミング良く自分や誰かの助けが入るならまだしも――
体調も最悪で周囲に誰もいない状態で、もしまたあんな目に合ったら……。
そう考えて哲哉は、立ち止まってしまっていた足でくるりと方向転換した。
気をつけろと一言くらいは言っておいてもいいかもしれない。十中八九「余計なお世話だ」「関係ない」と無表情で切り返されるだろうが。
気付くと、かなり足早に保健室へと引き返していた。
「そろそろ来るころじゃないか、と思ってたわよ」
扉の内から聞こえた倉田路代の声に、ノックしかけた哲哉の手がピタリと止まる。
「……できれば今月いっぱいくらいは頼らねーで乗り切りたかったけどな……」
応じた睦月の声で、なんだ俺に言ったんじゃないのか、と何となくホッとし、あらためてドアに指を掛けた。
「……でっ! いでで! 路代さん乱暴!」
「あーあ、顔に傷作っちゃって」
「顔なんか別にいいよ……いっ痛っ!」
突如始まった攻防戦に、何ごとかと少しだけドアを開いて覗き見ると、無理やり貼られたらしい口元のカットバンを不機嫌そうに擦る睦月の姿。
すでにブレザーは脱ぎ、ネクタイも外されてワイシャツだけで寛いでいた感がある。
(元々知り合い? 体が弱いってことで家庭か中学から申し送りでもあったんかな?)
いやそれにしたってやけに親しげだな、と思わず哲哉は二、三度瞬きをした。
養護教諭を名前呼びしていたこともそうだが、そもそも声の調子がまるで違う。
(つーか、こんなに喋るんだ? アイツ)
教室での様子からは想像もつかないほど気安く明るい口調に、驚かずにいられない。
「当たって倒れたフリだけしようと思ったんだけど……ちょっとの間、ガチで気ィ失ってたっぽくてさ」
「バカねー、なんて無茶するの」
「いや最初に倒れとけばホラ……腫れ物に触るように、っていうか? みんなビビって下手に近付いて来なくなるかなー、とか思ったんだよ」
呆れた倉田路代の声に、憮然とした響きで睦月は続けた。
(……は? じゃ何か? 向かってくるボールには気付いていた、と?)
よけようと思えばよけられた、というニュアンスにもとれて、哲哉はまたもや目を見開いた。
結果的に、たとえ短時間でも不本意ながら意識を失ってしまった、というのは本当らしいが。
現に床に叩きつけられた拍子に口の中と外を切っているようだし。
(いや、負け惜しみ的な後付なんていくらでもできるよな……。でも――)
だが完全によけられたかどうかはともかく。
あの一瞬のうちに、悪意を持って投げつけられたボールを周囲の人間をさらに遠ざける策略に利用しようとするだけの余裕が、睦月にはあったと――そういうことだろうか?
「んもう……面倒くさいわねっ! だから、いっそのこと開き直って女子校行けば良かったのよ!」
突如叫んだ倉田の声にギョッとして哲哉はわずかにドアから身を引く。
(お、おばさん! いくら何でもそれキツい。いくら
「……路代さん……オレ、一応男なんだけど……」
「あら、そうだったかしら。――まったく……困ったお父さん持ったものね」
あきらめたようにそっぽを向き、倉田路代は大きくため息をついた。
(何を……この二人はいったいどういう話を、してるんだろう? ……お父さん?)
当然のことながら、哲哉には何が何だかわからない。
「――元気でやってるの? 変わりない?」
「うん、相変わらず。なんか最近ますます厳しくなってる気ィすっけど。ほら……見てよココとか」
つられて見ると、肘まで捲り上げた睦月のワイシャツをさらに強引に押し上げて、倉田が細い腕を食い入るように見ていた。
角度的に哲哉からははっきりと認識できない、が。あれは――
(……痣? 傷?)
上腕外側に赤紫色をした線状のものが見えたような気がした。
「ちょ……っ、やり過ぎじゃないの? 他は!? それ脱ぎなさい全部! 見せて! 早く!」
「えーいいよ……治ってきてるし……」
なぜか血相を変えて、倉田路代が無理やりワイシャツのボタンを外しにかかる。
されるがままになっていた睦月も、しょーがねぇ……とばかりに下に来ていた白Tシャツを自分で脱ぎ始めた。
(お、おいおいおいおい……、こ、この流れはアレか? 年上の女との禁断のナントカってヤツか?)
ちょっとイイものが見れるかも、とゴクリと生唾を飲み込む。
――と。
不謹慎にもさらに身を乗り出して覗き込んだ哲哉の目が、一瞬大きく見開かれた。
肩と背中にも二、三ヶ所、先ほど上腕部に見えたのと同じような赤紫色――。
睦月の言うとおり治りかけなのか、わずかに色は薄いが打撲痕か何かに見える。
だが驚いたのはそればかりではなく……。
おそらく下にまで続いているだろうその背中の痣を、途中から真っ白な布が覆い隠してしまっていたのだ。
(さらし?)
哲哉にとっては任侠映画か何かでしか見たことのない、幾重にも巻かれているその丈夫そうな白い生地を、倉田路代は眉根を寄せてつらつら眺めている。
「締め付けすぎなんじゃないの? かなり顔色悪いわよ?」
「ん。すっげー苦しい。……けどこのくらいしねーと、そろそろ不安で」
(……?)
背中を診ようと倉田に体の向きを変えられ、睦月の身体の前面がこちら側に晒された。
「――!?」
危うく声をあげそうになり、思わず哲哉は口元を覆う。
一瞬、自分の目を疑った。
何かの見間違いだろう、と。
が、何度瞬きを繰り返して目を凝らしても、そこにあったのは――
白く細い身体の、鎖骨よりさらに下。
押さえつけられ締め付けられてはいるが、さらしの下に――胸の膨らみ。
(女!?)
無意識に数歩後ずさり、背中が静かに廊下の壁に突き当たる。
保健室の中では未だ何やらやり取りされているが、それ以上何かを得ようという気力もキャパも持ちあわせていなかった。
驚きのあまり思考が働かない。
閉じることを忘れてしまったような口も大きく瞠った目も、小刻みに震えていることだけは自覚できた。
それから――。
気配を殺したまま再び、それも一刻も早くこの場を立ち去らなければならないことだけは、確かなような気がして……。
握り込んだ拳と膝にぐっと力を込め、哲哉はゆらりと向きを変えた。
身体が馬鹿になったように、思いどおりに動いてくれない。
ゆっくりと慎重に、じゅうぶんに離れてから――駆け出す。
高鳴る鼓動をとにかくどうにかして静めなければ、というただその一心で。
(――――女……!!)
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