第4話

  



 一瞬にして、凄まじい衝撃と女子生徒の悲鳴がフロアを、空気を、伝って拡がった。


 哲哉の警告も間に合わず、激しい音を立てて壇上に倒れ込んだ大谷睦月のもとに、近くにいた二組男子生徒たちと体育教師が駆け寄る。


「大谷!」

「え……大丈夫か!? おい!」

「どこ打った!?」


 どこにどう当たったのか、跳ね返ったバスケットボールは誰にも触れられることなく数回バウンドを繰り返しながら体育館中央付近まで転がっていった。


「大谷! おい!」

「聞こえるか!?」

「大谷!!」


 人垣を掻き分けて駆け付けた哲哉も、教師の隣で必死に耳元で呼び掛けてみる。

 常と変わらずその肌は白く、右半身を下にそのまま真横に倒れ込んだ身体は、投げ出された腕や足どころか、指の一本さえピクリとも動かない。

 ボールにしろ床にしろ打ちどころが判らないため、無闇に揺すってみることもできず、ひたすら嫌な予感だけが全員の脳裏に拡がっていく。

 バドミントン中の女子生徒まで駆け寄ってきて、辺りはすっかり騒然となっていた。


「嘘……大谷くん」

「なんで? 大丈夫?」

「大谷……!」


 そして。

 何度目かの呼び掛けに。


 長めの睫毛が微かに震えた。

 ゆっくり瞼が持ち上げられ、あまり色の濃くない双眸が揺れながらあらわになる。


「先生! 気が付いた!」

「大丈夫か!?」


 哲哉の大声に、青い顔で携帯電話を操作しようとしていた体育教師が飛び付かんばかりの勢いで傍らに膝をつく。

 そして、つくなり……


「――ま、待て待て! 急に動くんじゃない!」


 眉をしかめて起き上がろうとしていた睦月を、あわてて制し始めた。もし頭を強く打っていたら、という懸念があるのだ。


「そう……そう、ゆっくりな……ゆっくり」


 背中に手を添えてやり、身を起こす手助けをしながら睦月の顔を覗き込み、注意深く様子を窺っているらしい。


「どうだ……? 大丈夫か?」


 教師の問い掛けに、え、と聞き取れないほど微かな声をもらしたかと思うと、睦月は片手で口元を覆った。


「おい!?」

「どうした!? 吐くか!?」


「……平気です。口の中……切れただけで」


 不快もあらわに眉根を寄せるその顔を見ると、どうやら中だけではなく外も傷付いてしまったらしい。

 うっすら血の滲んだ唇の右端を親指で拭うと、はっとしたように睦月は顔色を変えた。


「――すみませんお騒がせして。もう大丈夫です」


 ホッと胸を撫で下ろしている周囲には一瞥もくれずに、教師ただひとりに向けて、低く抑えられた声がそう告げた。 

 平気だからもう構うな、と言わんばかりに。

 かなり安堵したと同時に、こないだと一緒だな……と哲哉は胸中で苦々しく笑った。




「でも、一応保健室行ったほうが良くないですか?」


 背後から控え目な声が投じられた。

 控え目だがどこか狡猾さを感じさせる、聞き覚えもある声に、哲哉が密かに眉をしかめる。

 来たな、と思った。


「そうですよ。自分、付き添います。当たっちゃったボール、投げたの自分ですから……」


 例の一組男子連中だ。

 申し訳なさそうに心配げに表情を取り繕ってはいるが、声はやけに坦々としたものだ。

 周りには気付かれないよう密かに目配せし合っている状況さえ、今の哲哉にはしっかりと見てとれる。


(『当たっちゃった』って……こいつら……)


 頭の芯が妙に冷々としていくのを感じ、すうっと目を細める。

 心の奥底で何かがふつりと沸き立った。


 これだけ騒ぎを大きくしておいてビビりもせず、まだ計画実行しようというのか。

 あのまま睦月こいつが目を覚まさなかったら、いったいどうするつもりだったのか。

  

 人知れず握り込んでいた拳からやんわりと力を抜き、あえてゆっくりと穏やかに吐息するよう努めてから、哲哉は彼らを見据えた。



「そうだな。行ってこい大谷」


 安堵の吐息を漏らしながら体育教師の小池が言う。

 とにかく安心を確実なものにしたいらしく、「念のためだ」とさらに続けた。


「え、いいです。このくらい……」


 珍しく不満気な色を宿して睦月が振り仰ぐ。


「平気です」


「じゃあええと一組の――おまえら、頼んだぞ。ほら他は続けるぞー。時間がアレだから次のチームに交替なー。女子も戻れー」

「先生……! だったら一人で行きますから――」


 ホイッスルを片手にもう背を向けている教師。

 そこになおも食い下がろうとした睦月の肩と腕が、後ろから強く引かれた。


「そんなこと言わずにさ。本当にごめんね? 大谷くん」

「みんな心配なんだよ。ほら行こう?」


 いつの間にか例の一組男子に前後左右を固められ、睦月が言葉を詰まらせる。

 教師の意識はもうすっかりそこから離れ、残りの生徒たちも和気藹々とそれぞれ元いた場所に戻りつつあった。

 誰も、心配そうな言葉を吐きながら手を差しのべる彼らが、実は笑顔の下でとんでもない悪巧みを遂行しようとしていたことなど気付けるはずもなかった。


 ――ただ一人を除いては。


「大丈夫? 立てる?」

「い、いい。放……せ、おまえらっ」


 取って付けたような薄ら笑いに何かを感じたのか、強引に掴まれた腕をとにかく振りほどこうともがく睦月。

 そして必死で振り払って拘束から逃れた、その先で。



「おーーーーっとヤバいヤバいヤバい!」



 呑気な大声とともに、前触れもなく睦月の鼻がつままれた。


「!?」


 頭一つ分高い位置でにんまり笑ったまま、あえてよく響き渡る声で哲哉が続ける。


「鼻血じゃーん」


「は…………鼻血はにゃぢなんて出てにャい!」


 一瞬呆然とした後すぐさま我に返るが、つままれた鼻のせいで緊迫感の欠落した叫びにしかならず、睦月はいろいろな意味で愕然とした。


「つーことで、保健室は俺が連れてくんで。君たち要らんよ」


 空いた手でしっしっ、と悪巧み連中を追い払う素振りをし、哲哉は鼻を人質(?)に睦月を伴って難なく歩き出す。


にゃに、勝手に……!」 

「おおそうか、やっぱ吐き気もすっか。これはヤバい。さあ急ごう」

はにゃせって!」


 突如始まったドタバタに、一組連中だけでなく教師を含めその場にいた全員が目を丸くし。

 二人がにぎやかな言い合いを繰り広げながら遠ざかっていくのを、一言も口を挟めずポカーンと見送ったのだった。





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